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『歩いてみたら』 第5章

 やると決めたら闘志に火が付いた。
 高校時代を思い出し、当時の練習メニューを再現してひらすら励む。
 ボールとシューズ、そしてウエアはランチ会の日のうちに新宿のスポーツショップで買った。また四万円の出費だったが迷いはなかった。休暇は残り数日なのだ。昨冬のボーナスを使い切ってもいいくらいだった。ただしその額は雀の涙ほどだが。
 散歩から帰宅し、家の近所の公園に行く。リングの錆びたバスケットコートがある公園だ。リングの下に描かれた半円は消えかかっている。うっそうとした樹木に囲まれて人気が少ない。平日の昼間から黙々と練習するのにうってつけの場所だった。
 ストレッチを行い、ドリブルでコート内を駆ける。ボールが手に馴染んできたらシュート練習に移る。数日間で五百本のシュートを打った。博一の手から放たれたボールは完璧な弧を描き、リングに吸い込まれていく――。
 とはならなかったが、それでも、最後の何十本かは現役時代の感覚を思い出すことができた。手ごたえをつかんだ。あとは西田の実力次第である。アメリカ仕込みの大男はどれほどバスケが上手いのか。依然として不安は残ったけれど、開き直る気持ちもあった。
 これでだめだったら、あの公園に行くのをやめる。ケイティと家の近場を歩くことにする。そう決心していた。
 せっかく仲間ができたケイティには気の毒だが、もし敗退の場合にはおやつの常時グレードアップを確約した。
 とにかく対決に勝って西田より優位に立ちたい。さもないとグループ内には自分の席が存在しないような気がした。
 決戦前夜、リビングのテレビでBS放送のNBAの試合を観戦していると、玄関ドアが開く音がした。由梨の帰宅だ。
 博一は慌ててテレビを消して自室に戻ろうとした。だが間に合わずに廊下で顔を合わせてしまった。一瞬、互いの動きが止まる。約一週間ぶりに見る妻の顔は血色を取り戻していた。口周りの吹き出物も消えている。
 月末の校了とやらが終わってひと段落ついたんだな。
そんなことを思いながら無言で自室に入る。由梨がリビングに向かう音がする。
 ベッドの上で横になりユーチューブをひらいた。NBA選手の名プレー集を観る。同じ人間とは思えない動きをするのでとても参考にはならないが、士気が高まる。
 二本目の動画が終わったところでドアが細く開けられるのが視界に入った。
 なんだ? と目をやると白い腕がにゅっと伸びてきて、なにかが投げ込まれた。すかさずケイティがドアの隙間に体をねじ込んで走ってくる。投げ込まれた物体はおやつだった。ケイティが骨の形をしたおやつにむしゃぶりつき、奥歯で何度も噛んでいる。
 ケイティの首輪には折り畳んだ白い紙がさしこまれていた。ベッドから降りて手に取る。紙をひろげると《バスケするの》という一文があった。
 あ、リビングに置いてあるボールを見たのか。
 それにしても由梨はなぜ伝令役を用意したがるのだろう。喧嘩中とはいえ妻の行動が笑えた。
 自室を出てリビングに向かう。由梨はソファでテレビを観ていた。
「バスケするよ」
「いつ」テレビ画面を見据えたまま由梨が言う。
「明日」
「どこで」
「公園」
「誰と」
「散歩の人」
「あの公園?」
「あの公園」
「そう」
 由梨が立ち上がる。テレビ台の横に転がっているボールを手にとった。
「私も行く」
「え」
「なに、都合悪いの」
「そんなことないけど……」
「じゃあ行く」
 由梨がチェストパスでボールを投げてきた。経験者なので勢いが鋭い。あやうくキャッチしそこねた。
「おやすみ」
 由梨が浴室へと向かう。ケイティが骨のおやつを食べ終えてリビングに入ってくる。白くて尖った尻尾を揺らしていた。

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 翌朝、散歩前に仙人の動画を観ながらヨガをしていると、支度を済ませた由梨がリビングに入ってきた。
「ポスターのおじさん、その人だったんだ」
テレビの上に貼ってあるポスターを顎で示す。
「おじさんじゃなくてサドゥー。この人のナウリすごいから」
「よく分かんない」妻はあまり機嫌が良くなさそうだ。「もう行く時間でしょ」
 スマートフォンで時間を確認すると由梨の言うとおりだった。急いでマットを片付け、バスケットウエアに着替える。タオルとスポーツドリンクを米軍モデルのリュックに詰め込んだ。ケイティは久々に由梨と散歩に行けるのが嬉しいのか、家じゅうを走り回っていた。
 自宅マンションを出て公園へと歩いていく。空には動きの鈍そうな灰色の雲がたれこめている。天気予報アプリによれば東京二十三区西部は午後から雨とのことだった。
 博一がバスケットボールを手に持っているので、リードは由梨が担当した。
 公園までの道中、由梨から話しかけられることはなかった。博一もなにを話していいのか分からないので黙っていた。まだ仲直りはしていない。にもかかわらず散歩に来るということは、由梨は関係の早期修復を望んでいるのだろうか。
 だとしたら妻をおもんぱかって俺から話しかけるべき? だがいまは西田との対決に向けて集中したい。博一にとっては運命の一戦である。もし負ければ散歩仲間との決別が待っているのだ。
 ふと由梨の後ろ姿を見ると、やけに可愛らしい格好をしていた。スカート姿など最後に目にしたのは何年前かすら覚えていない。そして色使いも全体的に淡い。赤や黒や白などのはっきりしたカラーリングを好む由梨にしては珍しいことだった。何週間ぶりかの散歩でお出かけ気分なのだろうか。
 おっと、そんなことより西田だ――。対決のルールはまだ決めてない。十本先取したほうが勝ち、というのでいいだろう。開始直後の何本かは得点させてもいい。まずは様子見だ。ゲームが進む中で西田の苦手なシュート角度やゴール下のエリアを見極め、そこを意地悪く突いてやる。高校時代、部活の顧問から教えられたやり方だ。
 うし、やってやるぞ。須賀学ファイ、オー。心の中で過去のチームメイトと円陣を組んだ。
 広場に到着すると由梨の様子が一変した。
 山科夫妻を見つけるや否や、小走りで駆けていったのだ。
「ご無沙汰してます。いつも主人がお世話になっておりまして……」
「奥さん、久しぶりねえ」と山科・妻。
「こちらこそコーヒー豆とかバッグ買ってもらっちゃって」と山科・夫。
「バッグ?」
「いま奥さんが使ってるやつですよ」
 由梨が自分の肩にかけたトートバッグを見る。
「……ああ、主人から聞きました。可愛いバッグですよねー。デザインはどなたが?」
「僕の友人に美大出身のやつがいましてね……」
 山科・夫が嬉しそうにトートバッグの説明をしている。
 すぐに金森さんと曽我さんもやってきた。耳打ちしてくる。
「この人水沢っちの嫁さん?」
「わたしお会いするの二回目ですよね? ご挨拶しよっと」
 二人が由梨に話しかける。
 声をかけられた由梨が振り向き、大げさに頭を下げる。
 由梨は早くもメンバーと打ち解けていた。曽我さんの二の腕に手を触れ、このうえなく破顔している。金森さんがそんな二人の様子をカメラに収める。三カットほど撮影したところで「ちょっといきなり撮らないの」と、山科・妻に叱られていた。
 やっぱり由梨すげー。胸の中でつぶやく。
 妻と来れば今後の散歩がより楽しくなることは疑いようがなかった。もっとも、それ以前にロボの件を詫びなければいけないのだが。
 そして西田がやってきた。
 カレッジロゴTシャツにだぶだぶのハーフパンツ、頭には野球の外野手がかけるようなサングラスを載せている。
「やあ。みなさんおそろいですね」
「こんにちは。水沢の家内です」由梨が深々と腰を折る。
「どうも、初めまして。西田と言います」由梨と握手を交わす。「じゃあ、バスケコートのところに行きましょうか」
 皆で犬を連れて移動し始める。
 大階段下に二つあるコートのうち、ひとつは学生風の若者たちが使用していた。空いているほうのコートに西田と二人で歩いていく。金森さんがゴールの支柱のかたわらに立ってカメラを構えた。ほかのメンバーはコートを見下ろす位置にある、幅広の大階段に腰をおろした。「頑張って」山科・妻から声援が飛んでくる。
 もちろん頑張りますよ。西田を倒して、これからも散歩に来ます。なんだかキザな気分になった。
 由梨を見やると、曽我さんと肩を寄せ合い笑っていた。バスケの対決など、からきし興味がないようだ。都合がいい。むきになる姿は由梨にも曽我さんにも見られたくない。
「何点先取にしましょうか」西田が手首のストレッチをしている。
「十でどうですか」屈伸しながら答える。
「じゃあそれで。天気怪しいしサッとやりますか。水沢さん先攻でどうぞ」
 西田がリングを背にして立った。
 いざボールを手に持って向かい合ってみると、推定身長百八十五センチメートルの迫力は伊達ではなかった。
 ボールを弾ませて様子を見る。右から行くか、左から行くか。ためしに右側に軽く踏み込む。西田が素早く腰を落として対応してきた。すぐにバックステップで後退する。なんだこいつ、デカいくせに速い。
 目の前の男は想定よりもはるかに好プレイヤーのようだ。対決が始まったとたん、優男風だった目つきも鋭くなっている。隙がない印象だ。
 相手の顔ばかり見ていたら、手元が注意不足でボールをスティールされた。攻守交代である。
 リングを背にしてディフェンスの体勢をとった。膝を曲げる。左手を目の高さまで上げる。右手を膝の位置まで落とす。
 右利きの西田を利き手とは反対側に誘導していく。博一から見て右側だ。たいていの人間は利き手サイドでシュートを打つほうが得意なので、それを避けるためである。右脚を体の後ろに引いた。
 ばん、ばん、ばん、というボールが地面を打つ規則的な音が辺りに響く。
 さあどうする? 利き手のほうに行きたいよな? そうはさせないぞ――。
 と思った瞬間、西田が左脚を大きく前に出した。来る。そっちか。体を寄せて進路をふさぐ。
 だがフェイントだった。西田は素早い動きで半歩後退し、博一の左側、すなわち西田の利き手であるほうからゴールに向かって走った。
 やべっ。体を反転させてあとを追ったが手遅れだった。
 西田がピタリと動きを止め、高く飛び、両手を頭上に移動させた。ストップアンドジャンプシュートだ。ボールが弧を描く。ゴールネットが揺れる。あっさりと先制されてしまった。
 西田が自分でボールを取りに行き、そのまま守備位置についた。「水沢さん、動けますねえ」リングを背にしてワンバウンドでボールを投げてきた。
こいつ、おちょくってんな。上から目線の言い方が頭にきた。
 メッシュTシャツの袖を肩口までたくしあげる。
 ボールを弾ませる。あれこれ悩まずに、一気にいくことにした。
 地面を強く蹴り、右側に向かって走る。西田も併走してくる。
 ゴールから遠いが早めにジャンプシュートを打った。というより打たされた。あまりのプレッシャーにボールを奪われそうだったのだ。
 情けない音を立ててボールがリングに弾かれる。
 くそっ。さすがに遠いか。五百本のシュート練習はリング近くの想定だった。
 再び攻守交代する。さあ、次は入れさせないからな。とディフェンスの体勢になったときには、西田がもうシュートを打っていた。
 うそ? スリーポイントラインより遠いけど? ボールはリングに弾かれたが、再度落下する際にネットを揺らした。
「やった。入ると思ってなかったのに」西田が小さくガッツポーズをする。
「すごーい。いまの見ました」
 曽我さんが由梨の膝を叩いた。由梨はバウンドしているボールと博一を交互に見て、お手上げのポーズをとった。
 あのやろー。馬鹿にすんなよ。まだたったの二点だろ。
 そう思ったが、もう勝ち目がないことに気づいていた。
 博一の歩んできた競技レベルでは「デカいやつは遅い」というセオリーがあったが、西田は「デカくて速い」というNBA選手のような人物だったのだ。しかもシュートの射程距離が長い。
 たまにいるんだよなあ。推薦もらえるくらいの実力があるのに、バスケの強豪校に進学しないやつ。
 ここにきて自分の考えの甘さを悔いた。
 が、もはや詮無いことである。
 せめて何点か取りたい。頬を叩いて気合を入れる。小雨が降り始めていた。
 対決は淡々と進んでいく。
 博一がボールを持つ。攻めあぐねる。シュートをはずす、もしくはボールを奪われる。
 攻守交代し、西田がボールを持つ。鮮やかなボールさばきで博一をかわしてシュートを打つ、もしくは博一を無視してシュートを打つ。結果、ネットが揺れる。西田の得点が増えていく。
 そうこうしているうちに、持ち点は博一がゼロ、西田が九となった。
 体力は尽きかけていた。息が苦しい。胃液がせりあがってくる。脚が言うことをきかない。仮に脚が動いたところで西田のスピードにはついていけないのだけれど。
 西田は雨で濡れた髪をかきあげ、余裕の表情である。バスケット少年のように運動をエンジョイしている。「水沢さん、あと少し」励ましの言葉までかけてくれた。
 観戦メンバーは大階段から移動済みだ。バスケットゴールの裏にある歩道橋の下で雨宿りしている。犬たちも一緒である。金森さんもコート上から消えた。
 歩道橋の下からはコートの様子が見えない。誰も対決のゆくえなど気にしていないだろう。それがせめてもの救いだった。
 博一がボールを持つ。
 たぶんこれが最後だな。次に攻守交代したら、西田に決められて終わり。そして公園に来るのも、休暇も終わりだ。
 明日からまた普通に会社行くのか。ま、夢みたいな時間だったのかな。公園での散歩生活は充実していたけど、よく考えたら片道で徒歩四十分は遠いし。ちょうどよかったか。
 無理にでも自分を説得した。
 西田が腰を落として圧をかけてくる。嫌だ。ボールを渡したくない。一点ぐらい決めさせてくれ。体内でタービンがフル稼働した。
 右側に走る。三歩進む。西田が体を寄せてくる。
 その瞬間、地面から跳ね返ってきたボールを手に、体をターンさせた。忍者屋敷の回転隠し扉を通過するように、西田をかわす。
 フェイントは成功だった。
 やった。一本、決められる。ドリブルをしながらゴールを見据えた。確実に入れたいから、ジャンプシュートじゃなくてレイアップシュートにしよう。
 西田がブロックしようと追いついてくる。博一の右前方を走っている。
 ばーか。間に合わないよ。博一は力を入れて足を踏み切った。と思ったらずるんと足が滑った。
 うわっ。あぶない。
 博一は西田に突進してしまった。
 大人の男二人が地面に倒れる。
 すぐに体を起こした。いってー。膝を見ると血が出ていた。右手の掌底もすりむいて赤くなっている。
 視線を前に移すと、西田が濡れたコート上にうずくまっていた。
 あっ。やばい。
 血の気が引く。節々が痛む体を動かし、西田に駆け寄る。
「すいませんっ。大丈夫ですか」
「いや……。大丈夫……じゃないかもです」
 西田は歯痛に耐える幼児のような顔をしていた。体を折り曲げて綺麗な「く」の字を描いている。
 うわー、どうしよう。救急車? 携帯どこにやったっけ。
 歩道橋の下のベンチで雑談中のメンバーの元に走る。
「由梨。救急車呼んでくれ」
 博一が大声で叫ぶと場が静まり返った。
「なに、どうしたの」由梨が驚いている。「うわっ、血出てるじゃん。ちょっと大丈夫なの」
「俺は平気、それより西田さんが……」
「西田っちも怪我してるの?」金森さんがコートのほうへ駆けていった。ほかのメンバーも傘をさして西田の元に向かう。博一もあとを追う。
「ちょっとー、西田さん大丈夫なの」山科・妻が不安を帯びた声を出す。
「ええ、まあ、なんとか」
 西田は上半身を起こしていた。左手を地面について身体を支え、右手は浮かせている。
「きゅ、救急車、呼びましょうか」博一は喉がつかえてうまく声が出ない。
「いや、さっきはちょっと大げさでした。救急車は大丈夫です」
「でもそれにしたって、右手捻ったんじゃないの」と金森さん。さすがにカメラは構えていない。
「手から血が出てますよ」曽我さんがシャンティをぎゅっと抱きしめる。
「そうですね……」西田が左手で右手首に触れる。「あ、いって」
「ほらー、なかなか大ごとだよ」山科・妻が夫を見る。
「よし、うちの車で病院行きましょう。僕が送ります」
 山科・夫がしゃがんで西田に肩を貸してやる。西田は「あ、ひとりで大丈夫です」と言って立ち上がった。
 由梨が博一に目配せし、傘を手渡してくる。博一は西田の頭上に受け取った傘をさし、付き人みたいに寄り添った。
「僕も病院行きます」山科・夫に向かって言う。
「うん。そうしましょう」山科・夫が落ち着いて返事をする。
「すいません……」西田が苦悶の表情を浮かべる。
「いいえ、いいえ。本当に、すいません」泣きそうになる。
「私いちどタクシーで家に帰って、シェアカー借りて病院行くから。ケイティ置いてこないといけないし」由梨が耳打ちしてきた。「西田さん本当に申し訳ありません。レオくんは私がお宅まで送り届けますから」
「いえ、そんな、平気ですよ」
「でも……」
「じゃあ、レオを病院まで連れてきていただけますか? あとは妻に頼むので大丈夫です」
「……そうですか。分かりました。あ、これよかったら」
 由梨が西田にハンドタオルを手渡す。
「ありがとうございます」
「あなた、これに携帯入ってるでしょ」由梨がリュックを差し出してきた。「病院の場所分かったら連絡して」
 博一が力なくうなずく。
「それじゃ行きましょうか」
山科・夫に促され、駐車場に向かって男三人で歩を進めた。

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「いやあ、災難だったねえ」
「はあ」
「気にすることないよ。スポーツしてれば怪我はつきものだから」山科・夫が博一の肩に手を置く。
「じゃ、俺は店があるから戻るね。ごめんね」
「ああ、はい」長椅子から立ち上がってぺこりと頭を下げる。「あの、ご迷惑おかけしました。すいません」
「いいよ、そんなの。それに、謝るなら西田さんにだよ」
 山科・夫が手を振って去っていく。のそのそと歩く後ろ姿は、冬眠あけの熊のようだった。
 公園から車で五キロほど走り、休日診療が可能な総合病院にたどり着いた。
 西田は救急外来の診察室で手当てを受けている。彼が部屋に入ってから十五分が経った。
 博一は会計受付と向かい合わせに並べられた長椅子の最後列に座っている。
 着用しているTシャツとハーフパンツが湿っていた。ボクサーブリーフも生乾きだ。椅子が濡れるとまずいので尻の下にはタオルをかませてある。
 西田は、大丈夫なのだろうか。車内の様子では骨が折れたといった感じではなかった。だが右手首を触るだけで痛そうにしていた。あれじゃ車の運転だって難しいだろう。
 とんでもないことをしちゃったな。西田を病院送りにして、奥さんを呼ぶ事態にまでなって……。
 対決前まで火照りきっていた頭はすっかり冷めていた。
 やがて右手首に包帯を巻いた西田が診察室から出てくる。三十脚ほど並んだ長椅子に視線を巡らせた。博一は床に置いていたリュックを手に取り立ち上がろうとした。しかしそれより早く、最前列の長椅子に腰かけていた女が立ち上がって西田に近づく。
「ねえ、なにしてんの」女が尖った声を出す。
「……ごめん」
「手は? 大丈夫なの?」
「うん。捻挫だって。湿布貼ってもらった」
「動かせるの?」
「いや、何日かは無理っぽい」
「そう。骨折とかじゃないならよかったけど」女が長椅子に戻る。西田も女に倣った。「おとうさんに、『うちの婿どのは困ったもんだな』って言われちゃったよ」
「ごめん」西田が左手で髪をかきあげる。
「こういうことがあるとさ、普段のことも言われちゃうんだよ。この前あなた、おとうさんのアルファード勝手に使ったらしいじゃない。なんでひと言断らないの? 私さっき出かける前にいきなり言われて、びっくりしちゃった」
「うん」
「うんじゃなくてさあ……」西田の妻がうなだれる。「失業中の身なんだから、そういうところぐらいはちゃんとしようよ。ますます家の中で居心地悪くなるよ」
「君の言うとおりだ。ごめん」
「分かってるならいいけど……」西田の妻が顔を上げる。「まさかだけど、またおとうさんのオメガ使ってないよね?」
「え?」西田がわずかにのけぞる。「使ってないよ」
「……そう。分かった。疑ってごめん」西田の妻が立ち上がる。「それで、レオは?」
 西田も立ち上がる。
「ええと、レオをここまで連れてきてくれる人がいるんだけど……」と言って等間隔に並んだ長椅子を見渡す。
 博一は大急ぎでリュックのサイドポケットからスマートフォンを取り出し、ロックを解除した。ええと、なんでもいいけど……。そう呟きながら、電卓のアプリをひらいて適当に数字を打ち込む。視界に西田の足が入った。
「水沢さん、終わりました」西田が声をかけてくる。
「あっ、そうですか。どうでしたか」スマートフォンをリュックにしまい立ち上がる。包帯が巻かれた西田の右手首に目をやる。
「ええ、ただの捻挫みたいでした。お騒がせしました」
「そうですか。いや、本当に申し訳ないことを……」西田の妻に顔を向ける。「奥様でしょうか? このたびは私のせいでこんなことになってしまって……。すいません」
「いいえ、とんでもないです」西田の妻が口角を上げる。ネイビーのワンピースを着た色白の女だった。「この人も久しぶりにバスケットなんかするから、自業自得です」
「はあ……」
「本当に、お気になさらないでください」有無を言わせない言い方だった。「それであの……うちのレオはどこでしょう?」
「ああ、もうすぐ家内が車で来るんですが、それに乗ってます。あと十分ぐらいかと……」
「そうですか。分かりました」西田の妻が夫に顔を向ける。「そしたら私、先にお会計してくる。先生からもらった紙ちょうだい。座って待ってて」
 西田の妻が会計受付のカウンターに向かう。カウンター内には人がおらず、西田の妻が「すいませーん」と大きな声を出した。
 西田が長椅子の最後列まで歩いていくので博一もついていく。二人で茶色い革のシートに座る。オレンジ色のストレッチャーに横たわった人が、急いた雰囲気でどこかへ運ばれていく。
「……聞こえてました?」
「え?」
「さっきの妻との会話」
「ええと……」声がうわずらないように気をつける。「携帯いじっていたので」
 そう言うと、西田は博一の顔をちらりと見て「そうですか」と黙った。
 会計カウンターの横の部屋から事務員が出てきて、西田の妻に対応し始めた。西田の妻はカウンターの天板を指の関節でこつこつと叩いている。事務員が訝る表情で西田の妻を見上げたが、なにも言わなかった。
「西田さん、奥さんとはどこで?」
「え?」
「奥さんとはどちらで知り合ったんですか?」
「ああ、四井物産のときです。妻は一般職でしたが」
「そうなんですね」
「水沢さんは?」
「うちは大学のサークルです」
「なるほど」西田が目を合わせてくる。「水沢さんの奥さん、しっかりしてそうですね」
「それを言うなら西田さんの奥さんも」
 同学年の男二人の鼻から息が漏れた。
 博一は西田の顔を改めて横目で見た。
 あんた意外と奥さんの尻に敷かれるタイプなんだな。それにあのアルファード借り物かよ。オメガだって。
 もちろん口には出さないが、心の中で喋りかける。
 西田は左手で何度も顔をぬぐっていた。家に帰ってからのことを心配しているのだろうか。
 博一はどうも、この男にひどく自分勝手な親近感を覚えた。
 思っていたよりも完璧な人間ではなかったからなのか。故意ではないにせよ怪我をさせてしまった引け目のせいなのか。理由は謎だ。でも西田に対する嫌悪感は何百倍にも希釈されていた。
 会計を終え、西田の妻が最後部の長椅子に近づいてきた。
博一のスマートフォンが震える。リュックのサイドポケットから取り出して画面を明るくすると、由梨から《駐車場着いた。どこ行けばいい?》というLINEのメッセージが届いていた。
「あ、妻が着いたみたいです。お待たせしました」
 三人で休日用の出入口へ歩いていく。
 警備室横の自動ドアを抜けると雨がやんでいた。由梨にLINEで電話をかける。コール音が鳴ることなく電話に出た。
「どこ」間髪入れずに妻が言う。
「あ、いま休日出入口のところだけど」
「了解。すぐ行く」
 ポップなサウンドで電話が切れる。
 三十秒もしないうちに由梨がレオを連れてやってきた。
 由梨はまず西田に改めてお詫びをし、続いて西田の妻にもお詫びをし、うなじが見えるまで頭を下げた。当然、博一もそれに倣う。
「本当に申し訳ありません。うちの主人が……」
「いいえ。ただの捻挫みたいですから大丈夫ですよ」西田の妻が由梨の言葉を遮る。「レオ、よろしいでしょうか?」
「ああ、はい。すいません」由梨がレオのリードを西田の妻に手渡す。
「それでは、失礼します」西田の妻が水沢夫婦に会釈する。
「あの」由梨が二人を呼び止めた。「治療費、払わせてください」
「はい?」西田の妻が顔をしかめる。「そんなのいいです。大丈夫です」
「でもうちの主人の不手際なので、それぐらいは」
「いいえ、遠慮させていただきます」
「でも通院するわけでしょう」
「ううん、今日湿布貼ってもらったから、もう終わりみたいです。ね?」西田の妻が夫に顔を向ける。西田がロボットのようにうなずいた。
「ほら。なのでけっこうですよ。たいした値段でもないし」
「でも……」由梨が言いよどむ。
すると西田の妻が隠す気もなく大きなため息をついた。
「ええと、水沢さん……でしたっけ? こういうことは、お互いさまじゃないですか。今回の場合おたくのご主人が怪我をしていた可能性だってあるわけだし。もしそうだとしたら、怪我をさせられた相手から治療費をもらおうなんて思いますか? 普通は思わないですよね? ですので、お金はいりません。ご理解いただけました?」
 西田の妻は喋っている途中から耳が赤くなっていた。
 由梨は小さな声で「はい」と返事をしただけだった。
「ならよかった」西田の妻がフェイク感のある恵比須顔をつくった。
 西田夫妻が背中を見せて歩き出す。
 去り際、西田は博一に向かって首をすくめてみせた。由梨は頭を下げているので気づかない。博一は西田という男の人物像を再構築する必要があると思った。
 しばらく出入口の前に立っていると、パジャマを着た車いすの男がやってきて「ちょいとごめんね」と二人を避けて自動ドアの中に入っていった。
それを合図にするように、由梨がシェアカーに向かって歩み出した。カルガモの子供みたいに妻のあとを追う。
 由梨が運転席に乗り込む。博一が助手席のドアを開けると「これ敷いて」とバスタオルを手渡された。言われたとおりに分厚いタオルを尻の下に敷く。
 シェアカーのエンジンがかかる。ワイパーが一往復だけして動きを止めた。由梨がギアをドライブに入れる。車が発進する。
 駐車場を出ると、博一は助手席の窓を降ろした。梅雨時の湿った風が車内に入り込む。由梨も運転席の窓を降ろす。
 博一は由梨に謝ろうと思った。先日の喧嘩は自分が悪かったです、もうああいう言い方しないです、仙人のポスターも移動させます、と。
 しかし先に口をひらいたのは由梨だった。
「奥さん怒ってたね」
「え?」
「西田さんの奥さん、怒ってたねって」風の音に負けないように、由梨が大声を出す。
「ああ、うん」助手席の窓を半分上げた。
「そりゃ怒るよね。旦那が怪我させられてんだもん」
「……ごめん」
「ごめんじゃないよ」赤信号で車が停まる。由梨が両手を膝の上に置いた。
「私さ、浮気してんのかと思った」
「浮気?」
「そう。浮気」
「誰が?」
「博一が」
「どういうこと」
 信号が青に変わる。由梨が両手をハンドルに戻し、車が発進する。
「なんか最近、新しくいろいろ始めてるみたいじゃん。掃除とかヨガとかコーヒーとかさ。あ、カメラも買ったでしょ」
「うん。そうだけど」
「それってあの公園の人たちの影響でしょ?」
「まあ……そうだけど」
「やっぱり」由梨が勝ち誇ったような顔をする。「だと思った」
「それがどうして浮気になるのよ」
「ほら、なんか女子っぽくない? 博一がやってる趣味って。ちょっと偏見かもしれないけど。それで私、最初は浮気した女に教え込まれてんじゃないかと思ったのね」
「いや、浮気なんてしてないよ」
 博一の返事に構わず由梨が続ける。
「じゃあその相手はどこで見つけたんだってなったら、もう公園しかないじゃない? 博一ってあんまり友達の輪広くないし。それに毎朝うきうきで出かけてく感じ、分かってたから。キッチンには変なコーヒーグッズ増えてるし」
「べつに変じゃないけどね」思わず言い返す。
「で、私ピンと来たの。ああ、あのタンクトップの女の人だって。曽我さんのことね。博一ってああいう健康そうな子好きじゃん。ほら、ケイティにいた英文科のみどりちゃんとか好みだったでしょ?」
「それはまあ、どうだろう」ケイティとは二人が所属していたバスケサークルの名前だ。
「ね? だから私、それに気づいたときに無性に腹が立ったのね、博一に」
「……そうだったんだ」
「で、今日散歩についていって、私の考えが正しいかどうか確認しようと思ったんだ。もし本当に浮気だったらどうしよって怖かったんだけど。でもね、いざ曽我さんに接してみたら、『あ、こりゃ違うや』ってすぐに分かった。だって曽我さん犬みたいなんだもん。警戒心ゼロ。もし浮気なんかしてたら女って犬じゃなくて猫っぽくなると思うのね。ちょっと距離を置いて観察してくるとかさ。でも曽我さんはそうじゃなかった。だから自分がとんだ思い違いをしてることが急に恥ずかしくなっちゃったの」
「そりゃそうだ」
 博一が言うと、由梨がハンドルから左手を離して太ももを叩いてきた。
「そりゃそうだ、じゃないよ。ばか」本気で怒っているようだ。「だからなんか罪悪感? みたいなので、やけに曽我さんと仲良くなっちゃった気がする。あの子まだ二十五歳なんだってね。それで自分の教室やってるんだから、立派だよね」
「うん、そうだね」
「それと、私と山科さんの奥さん、あのあとどうやって帰ったと思う? ペットタクシーだよ、ペットタクシー。最初は金森さんが送ってくれるって言ったんだけど、さすがに悪いじゃん? だから断って、ペットタクシーを呼ぶことにしたの。私そんなの知らなかったんだけど、山科さんが前に利用したことがあったんだって。しかもタクシー会社の営業所が公園のすぐそばにあって、配車のお願いしたら五分で来たんだよ。あのセント・バーナード二匹と山科さんがタクシーに詰め込まれて帰るところ見てたら、おかしくってさ。まさかあの場では笑えなかったけど」
「それはなんとなく想像つく」
「あ、それとペットタクシー代は後日博一に請求してくださいって言ってあるからね。山科さんの家遠いでしょ? 覚悟しておいたほうがいいよ」
「分かった」
 博一はどうも謝るタイミングを逃したような気がした。それにいまさら、謝る必要などないのかもしれない。
 明日からまた総務部に戻るのか。運転する由梨を盗み見しながら、ぼんやりと考える。
 あ、使わなくなったコーヒーマシン、給湯室にこっそり置いとくか。ついでに豆も持参して、総務部の人たちにコーヒーでも淹れるか。水出しを持っていってもいいかもしれない。それが美味しいって認められたら、来客のお茶出し仕事ぐらいは任せてもらえるんじゃないだろうか。かすかに脚がむずつく。
 家で待っているケイティに、いつものおやつを買って帰ろうと思った。

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(了)

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