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365日 報道の現場で触れた 涙と感動

10年以上報道番組を制作してきて、この仕事でなかったら触れられなかったたくさんの人生に触れることができた。様々な人生を追体験できたことは、今の仕事や子育てにもとても影響をしている。今回は、報道の仕事の面白さについて書いてみる。

一言で報道番組といっても様々。毎日のニュース、スポーツ中継、ドキュメンタリー。私は一通り経験した。特に報道っぽいと言えば、突発の災害や事件事故だ。会社から渡された携帯を寝るときには常に枕元に置いて、鳴ればすぐに出ないと後で上司からひどく叱られる。でも、とにかく早く情報を届けたい、少しでも誰かの役に立てればとの思いがあったので、この生活を苦痛に思うことはなかった。

これまでのnoteでは、上司や同僚のびっくり発言などを紹介し、大変だったことを中心に書いてきたが、私はこの仕事が大好きだった。

相手が誰にも言えなかった胸の内を、カメラが回っているにも関わらず自分に打ち明けてくれたときには、本当に嬉しかった。社会に訴えたい、誰かの助けになるための話してくれる。私が報道の仕事をする目的と同じ気持ちを取材相手も持って、覚悟を決めてくれたような気がして感動した。

特に心に残っているのは、東日本大震災のときのこと。その頃私は札幌配属で、テレビで東北の映像を見ながら落ち着かなかった。1日でも早く被災地に行って、少しでも役に立ちたい。地震発生直後は、女性は危険な場所に行かせられないと上司は判断し、応援に向かうのは男性ばかりだった。何度か上司にお願いをしてようやく、震災発生1ヶ月後にして仙台、石巻、閖上へ応援要員として向かうことができた。いつまでの出張になるのかわからなかったのですぐに婦人科へ向かい、生理を一時的に止めるためピルをもらった。被災地では、水が出ない、トイレも使えるかどうかわからない、生理用品など物資が買えないかもしれないと聞いていたからだ。

仙台に到着して、社内はカップラーメンや菓子類の残骸、ついさっきまで寝ていたであろう毛布などが散らかっている中で、バタバタと走り回る記者やパソコンにずっと向かっているディレクター、寝ている人、様々だった。
とにかく寝られるときに寝る、食べられるときに食べながら、仕事をしている様子だった。

そこに震災の被害が小さかった札幌から登場した私。
自ら被災もして、お風呂もほとんど入れず、食事はカップラーメンが中心で1か月過ごしていた仙台の社員たちに、私を笑顔で迎える余裕はなかった。

あてがわれたホテルも、自動ドアは手動で電気もほとんどつかない状況。お湯はもちろん出ず、ついさっきまで誰かが寝ていた様子がわかるくしゃくしゃの布団で私は寝た。これまで毎日欠かさず風呂に入っていたこともあり、水しか出ないシャワーを浴びてみたが、雪が降る仙台でやってはいけないことだった。その日から、風呂に入らなくても気にならない性格になった。

中継やロケで石巻や閖上にも向かったが、以前はどんな街だったのか全くわからないほど何もなくなっていて、言葉が出なかった。

2か月近くの出張から札幌に戻った私の心に残ったのは、この仕事で何ができるのだろう。これまで、本当に誰かの役に立ったことはあったのか。結局、報道では何も変えられない。

自分には何もできなかった。そんな思いだけだった。

その思いが、その後の仕事への意識を変えていった。

つづく・・・。



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