夢宮 闇太郎

大道芸、特に口上芸について研究しています。

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最近の記事

6. 今に役立つ HOW・TO 言い伝え「守破離と風姿花伝」

 日本の芸能は、古代の祈りや奈良時代の散楽に起源を持ち時代を経る毎に重層、変化を繰返し今日に至っています。そこには、今の大道芸にも通用する芸能理論も生み出されました。 ここでは、能楽を生み出した世阿弥と江戸に茶道を広めた川上不白を紹介します。 川上不白*1は、「不白筆記」の中で、「守破離は、守って型に着き、破って型へ出て、離れて型を生む」と言っています。含蓄のある言葉なので、説明すると型とは、芸のすがた、かたちを指して、その究極を述べたことです。 守:師ハ弟子ニ型ヲ伝エ正シク

    • 5. 江戸時代その二、こんなことしてた!大道芸人

      乞胸が車善七(個人名でなく代々の世襲の家名)の采配ということは、士農工商の4階級の更に下、「非人」ということになります。しかし、実態は軽業が得意の町人(工商)が町人の身分のまま乞胸になっていたようです。落語や講談、歌舞伎は全て乞胸から生まれ、寄席、芝居へ発展していったものです。乞胸こそ日本の歌舞音曲の原点、先行芸能と言えるでしょう。しかし、歌舞音曲により関心を集め、喜捨(金を乞い、投げ銭・放り銭を拾い集める行為)は非生産的(米や物を作らない)で卑しい行為と見られました。このこ

      • 1.大道芸、二流の芸か?サブカルチャー

        ここでは、大道芸、特に和風大道芸について日々思っていること、感じていることをつれづれのエッセイとして述べて行きたいと思います。 最初に ストリートパフォーマンス、大道芸とは芸能としてどのような分野なのか考えてみましょう。よく芸能を分類するものとしてハイカルチャー、メインカルチャー、サブカルチャーの分類し、大道芸は、サブカルチャーに入れられています。 まず、ハイカルチャーとは長期間、広く社会に認知され、経験に基いた方式が確立している分野です。 受け手に素養や教養を求めます。基本

        • 22.江戸~明治期の大道芸を復興に向け

          日本人は、小柄で身体能力はないが、手先が器用・勤勉だとかねて言われていました。その例として近世では繊細で精密な織物、蒔絵、陶芸、彫金等を生み、近代でも製鉄、造船、電機、自動車などの産業を支え経済大国となりました。そこには、経験と勤勉に支えられた高度な技能や熟練した職人による職人芸があり多くの伝統工芸品や精密な機械部品を造って来ました。同じようなことは芸能や祭祀の分野にも見られ、ハード面では能面や祭りの山車・屋台などに質の高い製作技法が残され、ソフト面を見ると能・歌舞伎・踊

        6. 今に役立つ HOW・TO 言い伝え「守破離と風姿花伝」

        マガジン

        • エッセイ集
          2本
        • ああ、大道芸 寅さんを産んだ世界
          1本

        記事

          ダイバーシティについて

          2023/5/21日の日経新聞にニューヨークのメトロポリタン歌劇場のオペラの演目のダイバーシティ化(多様化)が進み、多様な人種によるトッーランドットや椿姫が演じられているが、客席は従来のままの裕福な白人ばかりとのこと。日本でも明治座や新橋演舞場でスーパー歌舞伎や都民の割引券を出していろいろ工夫しているようですが、客層はいつも固定化されているようです。  割高な料金と平日の昼間の長時間を考えると観る客層は限られますね。そこで、私が以前述べた和風大道芸を活用する余地がある

          ダイバーシティについて

          4. 江戸時代その一、こんな者だよ、大道芸人

           江戸時代の大道芸人は、香具師(やし)または、乞胸(ごうむね)と呼ばれていました。香具師とは、お祭りなどの路上や露店で物を売るついでにパフォーマンスしていた物売り芸人をいい、最初は薬や香など売っていた薬師(やし)が語源になったようです。乞胸は江戸の辻などで、歌舞音曲のパフォーマンスして金銭を乞うた見世もの芸人をいい、最初、胸を叩き興を得ていたとか、合棟(ごうむね)と呼ばれる長屋に住んでいたとかが語源になったようです。乞胸はこの路上パフォーマンスと門付けと呼ばれる玄関先の

          4. 江戸時代その一、こんな者だよ、大道芸人

          7.夢は、和風大道芸の日本遺産登録

          今まで、和風大道芸のエピソードを語ってきたつもりですが、これでは、大衆芸能文化史になってしまったかもしれません。古い時代の出来事をレトロ感に浸って語る気はありません。大道芸に興味ある人に、時代の変転の中でどのように大道芸が存在していたかを知ることで、日本人としてのアイデンティと誇りを持ち、かつ大道芸を観てもらいたいと思っています。海外へ行ってもパントマイムのことしか語れず、何かやって見ろと言われてもジャグリングを称賛するばかりではつまりません。アイススケートでは清明

          7.夢は、和風大道芸の日本遺産登録

          【番外編】行くよ! これが本当の啖呵売

           啖呵売とは、商品を売るため、場を盛り上げる巧みなセリフです。 次に良く使われる啖呵売を紹介しましょう。 「万物の始まりが一がならば、国の始まり大和の国、島の始まり淡路島」 「月にスッポン、月なきゃ提灯、提灯代わりの行灯に釣りはない、釣りなきゃピン札はたけ」 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」 「男は度胸で女は愛嬌、坊さんお経で漬物ラッキョウ、山じゃ鶯ホーホケキョ」 「南天寒天ところてん、ビックリ仰天、腸ねん転、わたしゃオレラでスッテンテン」 「驚き

          【番外編】行くよ! これが本当の啖呵売

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(八)

          第八章 無くナッチィマッタだと、それを言ッチャ、お終メーよ!  近年、大道芸で叩き売りといえばバナナの叩き売りを意味し他の叩き売りはその存在を失ってしまいました。叩き売りは売り手と買い手のオークションであり、特にバナナに限ったものではありません。これが、叩き売り=バナナとなってしまったのはバナちゃん節の存在の外、本来の日用雑貨の叩き売りが地盤沈下して、ステージショーとしてイベントで見せるだけの叩き売りになってしまったためでしょう。 イベントでやるならば、価格も安く仕入れも

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(八)

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(七)

          第七章 待ッテました! バナちゃん節   明治二八年、日本は日清戦争に勝利して台湾が日本の植民地になりました。 当時不毛の地だった台湾の特産品としてバナナが日本にはじめて持ち込まれたのは明治三六年とのことです。ここにバナナを売るために特別な口上を新しく作る必要が出てきました。なぜなら、当時日本にはバナナを食べる習慣がありませんでした。このためバナナを売るに当たっては、まず、バナナが珍しい台湾の特産であること、胃腸の消化など健康によいことを教えると同時に「大根などと煮込

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(七)

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(六)

          第六章 粋だネー、関東の啖呵売  江戸時代になると香具師の職業も多様化し、七色唐辛子、ガマの油、アメ売りなどがそれぞれの売る商品に合わせ独特の口上をつけて売るようになってゆきました。貨幣経済が浸透してくると人の注目をより集めるために口上にも工夫が必要となります。語呂合わせのよいしり取りや数え歌のように順序に妙をえたもの、下世話な下ネタ的のものなどが作られました。 また、当時流行の地口や芝居の口上の一部を取り入れたコンパクトな江戸弁で啖呵として創り、うまく商品の販売に繋げる

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(六)

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(五)

          第五章 何分、古い話で細かなことは分ネンデー  さて、寅さんが吟じていた啖呵売はいつ頃誕生したのでしょうか。寺社などで人の集まり市が立つ状態を高市(たかまち)といい、高市の成立と共に香具師が生まれたと思われます。 高市の歴史は古く「あまの高市」という名が日本書紀あります。この頃、つまり奈良時代以前より香具師は存在していたことになりますが、その詳しい実態はよくわかっていません。ただ言えることは初期の段階では、物を売るためには人の注意を引かなければなりません。そのためには大き

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(五)

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(四)

          第四章 ヤクザの親分もカッコイイが、テキヤも面白いゼ  語源の次にテキヤとヤクザの生まれた経緯とその違いについても述べたいと思います。 江戸時代後期になると無宿人が多く出てきます。当時、傷害や盗みなど非合法な行為を犯すと「縁座」という罪があり類が身内、家族にも及びます。このため家を勘当され、村にいられなくなった者や貧困から夜逃げ同然に村を抜け出た者が無宿人です。これら無宿人は、街道で荷物を運ぶ雲助になったり、都市に出て人足になりました。 また、一部は街道を渡り歩き賭博を

          ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(四)

          40.髑髏本尊記憶術③

          上記、遍歴年表の概要は、空海の虚空蔵求聞持法に始まった記憶術が、高野聖などを通して伝承され、井上円了氏*3の西洋記憶術の紹介の後、演技式記憶術が実演販売としてブームに*4、昭和になると石原誠之氏が競技式記憶で、世界記録を出すまでになる。しかし、戦後、演技式記憶は技芸のある芸人がいなくなり、衰退。競技式記憶も、戦後徐々に衰退、1991年の世界記憶力選手権(World Memory Championships)以降、3位にも入ってません。この記憶法は、単に大道芸や競技だけでなく、

          40.髑髏本尊記憶術③

          40.髑髏本尊記憶術②

          2.第二部、記憶の実演(演技式記憶と競技式記憶)  実演の部分では、お客とのやり取りが重要な部分です。自然体に記憶しながら、聴衆を厭きさせないスキルの工夫が必要です。この動画では、15分の制約で数字10桁、単語5つ の実演となっています。この演技を見て、こんなのすごくないや、この前、テレビで1分間で30桁覚えた名人を見た等の指摘がよくあります。この人が見たのは競技式記憶であり、演技式記憶とは異なります。競技式記憶は、単位時間内で数字やトランプをどのくらい覚えるかを競う記憶法で

          40.髑髏本尊記憶術②

          40.髑髏本尊記憶術①

          昔の大道芸記憶術は、人寄せパフォーマンス、記憶術の実演、記憶する本の販売の3つ部門から構成されます。最近の大道芸では、ステージショーが多く本の販売を伴わないことが多いため、この動画では、以下の2部の構成としました。 1.第一部、人寄せ ここでは、語り口上、怨霊、弘法大師をテーマにしました。昔の記憶術では、苦学生スタイルがありましたが、あえてパフォーマンス効果と昔の大道芸の特徴を伝え、現代でも存在感がでるようにするため、あえてこの3つをテーマとしました。 (1)昔の大道芸は語

          40.髑髏本尊記憶術①