ああ、大道芸 寅さんを生んだ世界(七)

第七章 待ッテました! バナちゃん節

  明治二八年、日本は日清戦争に勝利して台湾が日本の植民地になりました。

  当時不毛の地だった台湾の特産品としてバナナが日本にはじめて持ち込まれたのは明治三六年とのことです。ここにバナナを売るために特別な口上を新しく作る必要が出てきました。なぜなら、当時日本にはバナナを食べる習慣がありませんでした。このためバナナを売るに当たっては、まず、バナナが珍しい台湾の特産であること、胃腸の消化など健康によいことを教えると同時に「大根などと煮込んじゃだめ!皮をむかずに日陰に置く」など食べ方のレシピや保存方法まで教える必要がありました。

このようにして作られたバナナの口上の中で特に際立ったものが九州の門司に生まれました。「門司のバナちゃん節」です。当時の流通は海上輸送つまり貨物船でした。長時間、劣悪な船底に積込まれ輸送されたバナナは日本に着いた頃、少なからぬ数のバナナが傷んで売り物にならなくなっていました。門司は産地である台湾と大消費地である東京、京阪神の中間に当る中継地です。時あたかも満州、朝鮮への市場の拡大、筑豊炭鉱の活況、東洋一の官営八幡製鉄所の創業また、関門トンネルがないため九州鉄道網の基点として門司は華やかな時代を迎えていました。つまりこの時代の門司は、物流としてのバナナの中継地であると同時に博多をもしのぐ九州一の大消費地でした。

そこで、東京まで持って行けば傷んで売れなくなりそうなバナナを目に付きやすい桟橋付近に並べ、関門連絡船や九州各地からの列車が到着する度に大声で売りました。多くのテキヤが一人でも多くの客を得ようと売り始めた時、このバナちゃん節が生まれました。

 「春は三月……」ので出だし始まる甘くて郷愁ただようバナちゃん節はたちまち人々の心を捉えました。その内容もバナナを台湾娘に擬人化して、金波銀波の海越えて、はるか遠い日本に身売りされる台湾娘、バナちゃんの感傷と悲哀は、お客の心をつかみました。おまけにバナナはリンゴや梨のように皮をむく手間も少なく、列車の中で食べるのに適した食材だったのかもしれません。現代流に言えば、「九州の駅弁№1、九州へ旅行に行ったらおみやげは門司でバナナ」といったところでしょう。爆発的なバナちゃん節の人気の前にバナナを売る際、他の口上も啖呵も影が薄くなりました。しかし、このバナちゃん節は西日本特有のオットリとした甘いテンポの口上で仕上がっています。

 この時代、狭い日本でも地域毎にかなり風土とそれに伴う好みが異なりました。特に関東では、テンポの速い緊迫した啖呵での売りを身上としていたためバナナを意識した口上は特になく、既存の啖呵をバナナに当てはめ他の叩き売りと同じ啖呵で売っていました。しかし、西日本でバナちゃんが流行すると関東でもバナナを意識した啖呵売が注目となり、関東姉ヶ崎一家・甲州家二代目亀太郎の啖呵売はことに有名でバナナの叩き売りの祖と言われ独特の人気がありました。これらのことが、西日本では有名なバナちゃん節が東京ではあまり広まらなかった理由です。


第八章へ続く

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