23.伝統としての応援歌

             
 日本に初めてbaseballが伝わったのは、明治6年 以後それは、野球と訳され日本の文化として根づいてきた。刀に似た棒で球を叩く,9回裏2死満塁などサッカーなど動的画面の連続と違い、静的に間の有る時間空間が日本人に好まれたためだろう。「巨人の星」などのコミックでは、その間の空間の心理描くことで読者に受けたものと言える。最初に野球人気を高めたのが大学野球である。大正3年早・慶・明の3校で発足したリーグ戦は残り3校の加入を巡り、当時も強かった青山学院は早稲田奉仕団と言うキリスト教関連奉仕団の縁で早稲田の応援が多いということで、慶応が反対、中央大学は、実力者の飛田穂洲が指導して縁もあって加入かと思われたがフランス系民法の明治がイギリス系民法の中央に反対、これにより今日,東都大学リーグの雄である2校が消えた。
代わりにキリスト教系の立教とフランス民法系の法政が加入、最後に国立系の東京大学と高等師範学校(現、筑波大学)となったが、テスト試合で東大投手が力投したこと、政財界に太い人脈を持つことを考慮し東大の加入が認められ大正14年,6大学リーグが発足した。この加入審査で逆の結果が出ていたら実力伯仲、どこが最下位でもおかしくないリーグ戦となったかもしれないと思うと同時に、100年経っても実力ランキングの変動が余りないことは驚きでもある。
当初から早稲田と慶応の対抗心は強く、これは野球以前の大隈と福沢という創始者の見解の相違を取巻きの書生らが遺恨を晴らす場として野球に持込んだことが、世間の関心を高めたと言える。このように始まった東京6大学であるが早稲田に連敗した慶応が、士気を高めようと昭和2年、鼓舞する歌の作成を、当時洋行帰りの若手作曲家、堀内敬三に依頼した。こうしてできたのが「若き血」である。すると慶応が優勝。そこで早稲田の応援団が作詞を応募、西条八十のもっと有名な作曲家に頼めの意見に反し、依頼したのが無名の作曲家の小関雄二である。こうして出来上がった「紺碧の空」は忽ちヒット、「若き血」と「紺碧の空」の応援合戦で6大学の人気は大いに高まった。これによる入場者数多さと売上が大型専用球場の構想となり、明治神宮球場が作られた。今日 他の東都大学リーグなどが野球場の使用に苦労しているのに6大学が週末土、日の良い時間帯に神宮で試合できるのはこの時に資金を出したためである。人気となった応援歌はその後、法政が「若き日の誇り」を、明治は「紫紺の歌」と続く。
「紫紺の歌」の作詞を見ると「光輝」、「若き血」、「精鋭」、「闘志」の単語、漢文調の様式は早慶の応援歌の影響を受けている。これを「真似」とせず、良い物は互いに「新取」するというのが当時の気風であった。例えば、大正10年明治の応援団長、相馬基が考案した「三三七拍子」は他の大学に、更に一般大衆にも広まった。他にも6大学で生まれたブラスバンド、バトン部の応援、パンチを繰出す振付などは、広くプロ野球、高校野球にも浸透し既に日本の応援文化となっている。この「新取」の気風や歴史的経過を知らず、気楽にMLBを観戦し「アメリカのbaseballは静かにゲームを見ている、日本の鳴り物はうるさい」とするは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」の例えではないだろうか?
 昔と異なりバンカラだった応援団も垢抜け、チァガール、ブラスバンド一体となった明るく、乗りの良い応援が今日見られる。そこで外国人観光客用に大学野球の応援参加を観光コースに設定してはどうだろうか? 低料金の上、観客席も多く空いている。プロ野球と異なる学生野球の文化はインバウンド観光の一つのツールになるのではないか? 最近の大学は観光系、グローバル系、日本文化の発信関連の学部が多く作られ、学ぶ学生も多い。これが実現すれば、体験実習の良い教育現場になるのではないか? そして、その先に応援文化の無形文化財登録もみえてくるのではないか?            

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