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「無駄を愛する」文章術?

無駄のない文章は読みやすい。
でもその「無駄」にこそ惹かれるのかもしれない。

というようなことを、最近よく考えます。


きっかけは、少し前にnoteを書いていた時。
話の流れで生成AIを初めて使ったことでした。

テーマに沿った700文字ぐらいの文章を、ほんの数秒で作成してしまう生成AIは、率直に言ってやっぱり凄かった。
しかもちゃんと読みやすいし。

で、そういう光景を目の当たりにしてしまうと。
じゃあ人間が書く意味ってなんだ?
という疑問も芽生えるわけです。

これからは、人間が書く文章には「一見関係ないもの同士を結びつける」といった発想の飛距離が求められるのかも。
そこで勝負することになっていくんだろうな、と当初は結論付けていました。


でも多分それだけじゃない。
語彙の選択から、語感や展開に至るまで。
感情をもった生身の人間が書く、五感フル活用の成果を落とし込んだ文章へと回帰していくんじゃないか。

それを具現化すると、生成AIなら「無駄」と判断して削ぎ落とす、もしくはそもそも取り入れる選択すら無いもののはず。
人間ならではの、その人ならではの「個性」です。


若干極端な例を挙げます。
町田康さんの芥川賞受賞作『きれぎれ』をご存知でしょうか。

↑このサムネイル、表紙のイラストが見事に帯で隠れていて見た瞬間噴き出しました。初見の人が帯外した瞬間のリアクション見たい。めっちゃ見たい。

で、この作品。
文中に「俺だ僕だ」という奇っ怪な一人称が登場するんです。
しかもそれで統一されているわけじゃなく、ところどころ「俺」だったり「僕」だったりする中に不意打ちで「俺は僕は」がぶち込まれる。
(どうやって英訳するんでしょうね?)

ただ実際に読んでみると、俺でもなく僕でもなく「俺だ僕だ」であることで、文章全体をリズミカルに読めるんですよ。
多分、そうすることで語呂がよくなる箇所にだけ使っている。むやみやたらに散りばめているわけじゃないのは伝わります。


町田康さんは超一級の詩人でもあるので、この特異な言語感覚を安易に真似るのは無謀すぎるとはいえ。
こういう切り口の「その人にしか書けない文章」もあるよ、というお話でした。

「無駄」と「個性」って背中合わせなんですよね。
冗長さを排しつつ、自分ならではの文章を模索する日々でございます。

お読みいただき、ありがとうございました。

#66日ライラン29日目



※生成AIを使う前は、こんな記事を書いたりもしました。



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