見出し画像

「推し」を「推す」時に忘れたくないこと

一年ぐらい前に読んだシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』という思想書が、今でも心に残っています。

このサムネイルどういうことなん?
という疑問は置いておいて話を進めますね。

私は無宗教なので、神について述べるヴェイユの峻厳しゅんげんかつ一途な思索の全てを、ありのまま理解するのは正直不可能です。
(実際、たまたま読了から間もない時期に遠藤周作の『沈黙』という小説を読んだおかげでようやく腹落ちした部分もあります)

なので自分なりに咀嚼した次第で、ヴェイユの信仰心を軽んじる意図は全く無いです。ひとつよろしくお願いします。



さて。
この記事で言いたいのは、私が推しを推すにあたって、大事にしたいと思っている考え方です。

『重力と恩寵』に、こんな一文が登場します。

神についてどんな体験もしたことがないふたりの人の中で、神を否認する人の方がおそらく、神のいっそう近くにいる。

『重力と恩寵』190頁より引用

推しを神と崇めるのは個人的にやりたくない行為なので(暗に人間扱いしないって事だし)、神という言葉にそのまま推しを当てはめるわけでは決して無く。
ただ、主旨を普遍的かつ自分なりに解釈した上で、推しを推す以上はこうありたいなと思うわけです。


ふたりの人がいるとします。
どちらも推しと面識のある知人などではなく、関係性だけを抽出すれば普通に他人同士です。
ひとりは推しの事が大好きで、もうひとりは推しに対して何の感情も抱いていません。

この場合「いっそう近くにいる」のは。
推しの存在をありのままに捉えられるのは、何の感情も抱いていない方の人なんじゃないか。
推しの事が大好きな人はそれだけなら平和な話だけど、推し自身ではなく、脳内に築き上げた理想の存在を愛でている……なんて事態に陥ってはいないか。

もちろん知ってしまった、惚れてしまった以上は、何の感情も抱いていない状態に戻るのは不可能です。
と同時に、内的に育まれる感情は、「好き」が肥大した結果の妄信的な全肯定と相性抜群でもあります。

勝手に虚像化して勝手に裏切られて傷つくなんて、現実の推しに対しても失礼な話。
「推し」を「推す」以上は、そういう自問と自戒を忘れないようにしたい。



自分ごととして解釈してしまいましたが、それはそれとしてシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』は名著です。
遠藤周作の『沈黙』も、機会があればぜひとも。

へんな話をしてしまいました。
お読みいただき、ありがとうございました。

#66日ライラン63日目


この記事が参加している募集

推しの書店で本を購入します📚