枝垂桜を綴る手紙
それは八十四歳の祖母へ送る手紙です。
便箋には春の写真を一枚添えて
封をしました。
*
山里にある
こぢんまりとしたお寺の境内で見上げた
一本の枝垂桜は、
もう百年以上もの間
そのお寺の参拝客を見守り続けてきた
老樹でした。
地面にどっしり根を張り、黒く太った幹を構え
力強く畝る枝ぶりは見事で
この桜が越えてきた長い歳月を思わせます。
枝を辿るようにして空を仰げば、
そこには溢れ咲く爛漫の花。
青い空を背景に
大きな、大きな花の笠が広がっていました。
時おり吹く風に
花は、しなやかに揺蕩い、
それはまるで
桜色に透ける染物が
ふうわり、ふうわり、となびく姿のようで
言葉にならない魅力が
辺り一帯を満たしています。
花見に訪れた人たちも
言葉少なに木の下に佇み、
ただ、風に舞う花びらだけが忙しなく
目の前を行き交うのでした。
*
この風景を祖母にも見せてあげたい、と
書いた手紙。
祖母は昨年末の骨折で
ずいぶん脚を弱くしました。
長く歩くのは難しいので
出かけるのは億劫みたい。
何をするにも遠慮がちになってしまったことが
気がかりでした。
あの四月の美しいひとときが
祖母へ届いてほしいと
花のこと、空のこと、風のこと、
思いつくままに綴ります。
そう遠くないところに住んでいるのですが
ちょっとしたサプライズの気持ちも込めて
手紙は、郵便で届けることにしました。
*
それから
幾日か経ったある夕方のこと。
勝手口のところに、
新聞紙に包まれた苺のパックがふたつ、
ちょこんと揃えて置いてあるのに
気がつきました。
貼られたレモン色の四角い付箋には
「お手紙ありがとう」
の文字。
やや頼りない、ぶっきらぼうな字です。
「おばあちゃん、
昼間に持ってきてくれたみたいやね」と母。
それは、祖母からの
思いがけない
春のお返しでした。
*
緑のヘタをくるりと反らせて
肩まで赤く染まった苺は
頬張ると、じゅわあっととろけて
濃い甘さと程よい酸っぱみが広がります。
私は度々祖母に手紙を書くのですが
考えてみると
こうして文字のお返事をもらったのは
初めてのことでした。
「自分の字は恥ずかしいから」と
書くこと自体、あまり好きではないのです。
そんな祖母がくれた、小さなお手紙。
付箋の文字が
嬉しくて、なんだか愛おしくて。
離れていても
季節を一緒に楽しめる手紙を
これからたくさん書くね、
私が色んな景色を
おばあちゃんに届けるから、
気が向いたらまた
素敵な花を見に出かけようね
そんなことを思いながら
付箋をそっと、手帖に挟めました。
*
一本の枝垂桜がくれた
心に残る、やさしい春のできごとです。
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