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映画【花束みたいな恋をした】
見た映画の気になる部分を書き留めていきます。
今回採り上げる映画は、2021年1月29日公開『花束みたいな恋をした』です。
この映画を採り上げた切っ掛け
最近「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(著.三宅香帆)を読みました。
この書籍の中で、この映画が採り上げられていたため、気になって、あらためて映画を見てみました。
「本が読めなくなる」という観点で、この映画を見直してみるとどうなるのだろうという興味です。
気になった箇所① 最大公約数サブカル
この映画、いろんな人が自分の視点でいろんな感想を上げて頂いてます。
興味深く聴いたコンテンツとして、『旧第14回「花束みたいな恋をした」とカルチャーと東京と仕事』(映画の話したすぎるラジオ)がありました。
ただまぁ、かなり紋切り型のサブカル人間として二人とも描かれてますよね。
そこは、何ていったらいいんだろうな、
かなり、ケッとなる部分は正直あったなと思って。
そこは敢えてやっているんだろうなというか、
最大公約数としてのサブカルみたいなものをあえてやってたと思うんですよね。
そこで具体的にサブカルを掘り下げて、みたいなものにはしてないのかなっていうふうに感じて、
最大公約数のサブカル、これってサブカルっていってるけど、実質、かなりマジョリティーだと思うんですよね。その麦くんと絹ちゃんって。
例えばその、本棚に「AKIRA」置いてって。
本棚に「AKIRA」置いてるのって、別になんか、サブカルじゃなくても、大学でちょっとサブカルにどっぷり踏み込まなくても、「AKIRA」いいよね、ってなる時期あると思うんですよね。
そのあたりを「今更「AKIRA」もなー」みたいなところまでのカルチャーに触れてる存在としては二人を描いていないのかなと思って。
それはなんでかというと、誰でも共感できるようにですよね。
自分だけはこれってちょっと変わっているよねって思ってるけど、実は最大公約数みたいなものとして、この作品内でのサブカルって描かれてるのかなって思っていて、
・・・
エッジはそこまで効いてないですよね。
・・・
その万人に共有できるわけではないトンガリを、いっぱい散りばめたことで、誰が見ても、誰が見てもっていうほどではないけど、多くの人があの映画を見た時に、「あっ、ここ人と共有できなかったけど、人と共有できて嬉しい、みたいの分かるわ、」みたいなものの記号の集合体みたいな感じととらえたんすよね。
トンガリ過ぎて気持ち悪くなるかなり手前の最大公約数としてのサブカル情報が散りばめられているから、多くの人が自分語りをしだす、そんな印象を持ちました。
この最大公約数としてのサブカル情報(恐らく、絹>麦の最大公約数)が、二人の関係性において、ズレを起こしているように感じます。
もともと二人は異なる属性を持っていました。
麦:地方出身(新潟県長岡市)、父親は職人(恐らく花火師)
絹:都内在住(東京都調布市)、父親は大企業サラリーマン(恐らく電通サラリーマン)
東京に憧れて上京した麦は、もともと都会的な同級生に憧れていますし、
コリドー街でナンパ待ちに加わることも出来てしまう絹は、もともと都会的なさわやかイケメン男子と付き合っていました。
サブカル共通項はあったものの、本質的には、お互い持ってないもの(麦:都会的な文化受容性、絹:地方的な純朴な文化感)に惹かれ合っていたのではないかなぁと。
自分たちが考えている「好きなもので繋がっている」という意識的な感覚と
本質的には、「お互いの自分にない部分に惹かれ合っている」という身体的な感覚は、
お互いのコミュニケーションの中で、相互理解が深まらないまま、自然と別れが来たように私には感じました。
気になった箇所② アフター・コロナ
今、あらためて観ると、イヤホン、圧迫面接、コロナ禍、前田裕二文脈、この4つが撮影当時と比べて大きく変化していることを面白く感じました。
イヤホン:有線イヤホンから無線イヤホンが主流に
圧迫面接:圧迫面接が社会的にNGに。採用も求職者優位多し。
コロナ禍:撮影時点ではコロナ禍は想定されず
前田裕二文脈:ベンチャー界隈(グロース市場含め)は冬の時代に。
このような変化を音声コンテンツ「ゆとりっ娘たちのたわごと」の中で興味深く聴くことが出来ました。
この2つの音声コンテンツ、
2021年2月10日の劇場公開時点での感想エピソード(下段)と
2024年5月10日の3年後にあらためて映画を見た感想(上段)、
3年経過した際の映画の受け取り方の違いを、個人と時代の両面から採り上げて頂いている興味深い内容になっています。
これが現実だったら、この2人がこの後もさ、人生が続いているじゃん。
うちらと同じように多分変わっているはず。
どうなってると思う?予想していこう、じゃあ。
絹と麦、どうなってるか問題
絹は、結構でも有名になってそう。なんか。
たぶんtwitterは絶対やってる。
多分フォロワーはまぁ3~4000人はいるんじゃない。
なんかこう、やっぱ好きなものを没頭するの絹、没頭ってか、好きなものを語るの多分好きだったし、それを続けたいっていう感じだったから
で、しかもこの時、podcastとかyoutubeとかも、そんなになんかこう、
まだなみたいな感じだったけど、今、多分、絹、podcastやってます。
・・・
それは、しかも別に仕事にしなくてもいいっていう考え方でやってんじゃないかな。
noteとpodcastを併用しているパターンの人だね。
・・・
なんで多分まぁ、絹は結婚とかはしてなくて、そういう感じで趣味に生きているかもね。
楽しく生きてると思う。
これを聴いて、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の下記箇所が頭に思い浮かびます。
思えば本書の序章で紹介した『花束みたいな恋をした』も、「自己実現しきれない若者」の物語だった。やりたい仕事であったはずの、イラストレーターで食べていけない。好きなことを仕事に、できない。でもそれは生活のためには仕方がないと思っている。
麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるってかんがえちゃう」(坂元裕二「花束みたいな恋をした」)
好きなことを活かせる仕事ー麦の言うとおり、それは夢物語で、モラトリアムの時期に描くことができる夢なのかもしれない。しかし問題は、それが夢物語であること、ではない。むしろ好きなことを仕事にする必要はあるのか?趣味で好きなことをすれば、充分それも自己実現になるのではないか?そのような考え方が、麦にとってすっぽり抜け落ちていることこそが問題なのだ。
コロナ禍という環境変化、ワイヤレスイヤホン普及、動画・音声配信システムの普及、様々な変化が相まって、映画公開当時である3年前と今では、私たちの思考様式自体も変わってきているように感じます。
特にワイヤレスイヤホンの普及を経て起こっている音声コンテンツの普及は、
仕事とプライベート、どちらかを選べ、という二元論的な世界観から、
コンテンツを仲立ちとした複数のコミュニティが重なり合う中にいる自分という分人的な世界観に、
私たちの自己認識を移行させているように感じます。
このあたりの時代の変化、とても興味深いです。
鑑賞後に思うこと
タイトル『花束みたいな恋をした』は、
「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに、一生その子のことを思い出しちゃうんだって」
切花として枯れていく、期限付きの美しさ
特定の他者を媒介として知りえた情報が、再度情報に触れた時にその他者を想起させる
「花束」の意味合いを本編を見た後、この2つの意味で捉えることができました。
特に、後者の他者と情報の関係性について、個人的にとても興味深かったです。
何かを共有することを切っ掛けに、人と人がつながる。
その何かがとがった部分だと当初の結びつきが強くなるが、情報共有の喜びだけでは関係性は続かないのではないか?
私たちは、仕事とプライベート、どちらかを選べ、という二元論的な世界観から、コンテンツを仲立ちとした複数のコミュニティが重なり合う中にいる自分という分人的な世界観に自己認識が移行しているようだ。
この2つを探求のテーマに加えて、自己認識の在り方が変わるという観点で、今後、様々なコンテンツに触れていきたいと思います。
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