【オタク論】BL・百合という現象
昨今、BLや百合というような同性愛(または同性愛を想像させえる友情)をモチーフとした作品群がオタク文化で非常に力を持つようになりました。
これは非常に面白い現象だと思うのは私だけでしょうか?
これはもはや趣味嗜好またはジェンダーの多様化という言葉では片づけられない現象だと私は思います。
そこで、この記事ではBL・百合(GL)について少し考察のメスを入れてみたいと思います。
私は人並みにはアニメを見てきた人間です。
漫画も多少は読んできましたし、一時は女性アイドルにはまっていた時期もありました。
そういう意味で、私は代表的なオタク文化をある程度浚ってきたわけです。
そんな私なりにオタク文化を考察してみたいと思うに至ったわけです。
今回考察するのはBL・百合について。
現代のオタクはコンテンツとしての同性愛に何を求めているのでしょうか?
*あくまでも個人的な主観を多分に含んだ議論であり、学術的・客観的根拠はほぼゼロなので話し半分に読んでください。
*議論をややこしくしないために、ここではBL・百合風もBL・百合と表記します。ガチBL・百合ファンの方はご了承ください。
コンテンツとしての同性愛
現代のアニメ・漫画を語る上で欠かせないのがBLや百合と言われる「コンテンツとしての同性愛」です。
ストーリーそのものが同性同士の恋愛を描いていたり、本編ではそういった描写がなされていなくても二次創作でBL・百合に昇華されるものが、ここ数年で目立って増えてきたイメージがあります。
もちろん、こういった作品が増えてきたというのは、同性愛のコンテンツをポジティブに消費する層が増えたという意味でしょう。
BLを好んで消費する女性を表す「腐女子」は現代オタク界のバズワードですし、
少年ジャンプの作品なんかでも女性の読者が「青年同士の友情」に「萌える」という現象が起こっています。
さて、ここで考えたいのが、何故このような同性間の恋愛が好んで消費されるようになったか、という問いです。
まず考えられるのは「ジェンダーの多様化」です。
LGBTに代表される性的マイノリティーへの配慮が現代社会では頻繁に課題として取り上げられていますね。
ジェンダーが多様化すると、同時に恋愛対象も多様化していきますよね。
まだまだ性的マイノリティへの配慮が少ない日本。
そんな国だからこそ、コンテンツの中に多様性の逃げ場を求めたという議論はあって当然かも知れません。
ただ、私が思うに話しはそこまで簡単ではないでしょう。
もし、「コンテンツとしての同性愛」が単に性的マイノリティーの逃げ場でしかないのであれば、
これを消費する主体は、BLなら男性、百合なら女性が多数になると考えられます。
現実はどうでしょうか?
BLは女性が、百合は男性が消費者のマジョリティーを確立していないでしょうか?
つまり「コンテンツとしての同性愛」は単に「同性愛を容認するコンテンツ」という議論では片づけられないのです。
同性愛の消費者たち
さて、「コンテンツとしての同性愛」の消費者は多くの場合が異性である、という話をしました。
これが現代のオタク文化について考える上で面白い点なのです。
アニメや漫画などでは、いかに視聴者・読者を作品に没入させるかが創作活動の鍵となります。
消費者側に没入感を持たせる上で重要になるのは、作品と消費者の身体をリンクさせることです。
小説の執筆では情景を描写する能力が必須になりますが、これは作品の中にいる人物が見ている風景を読者にイメージさせ、その風景の中に読者が飛び込んだと錯覚させる、つまり登場人物と読者の身体をリンクさせる技法なのです。
また、身体と性は切っても切れないところにあります。
なので少年漫画の主人公はほとんど男ですし、少女漫画の主人公はたいがい女性なのです。
しかし、BL・百合文化には、この身体的リンクの技法が存在しません。
男性同士の受け攻めの快楽を女性が想像しえるとは思えませんし、女性同士のゆるふわな関係に私は没入できません。
これは制作の分野を分析する上で非常に大きなターニングポイントであると思うのです。
では消費者が作品への身体的リンクを介した没入を求めていないとして、果たして彼ら彼女らは何を得ようとしているのでしょうか。
これは仮説の域は出ませんが、「現実逃避のリアリティー」ではないのかと私は考えます。
「現実逃避のリアリティー」というのはどうも逆説的に見えますが、別にパラドキシカルな議論をしたいわけではありません。
リアリティというのは現実性、つまり現実的な物もしくは現実と認識したい物です。
つまりこの言葉は現実から逃避したい人間がリアルであると認識したい別の「現実」という意味です。
このややこしい言葉について、少し深く説明します。
身体を捨てるためのコンテンツ
男性らしさ、女性らしさという言葉があります。
この二つの言葉はどちらも構造的な暴力を多分に含んでいます。
「男性らしさ」は全ての男に等しく強い自立した存在である事を強制させ、
「女性らしさ」は全ての女に等しく控えめで誰かを支える主体となるように働きかけます。
またそういった「らしさ」が両性の存在意義を確定しますし、互いの異性から視られることで「らしさ」が確立していくわけです。
現代日本では女性の社会進出が増えればジェンダー課題が解決されると信じて止まない人が多いようですが、
こういった「らしさ」の問題が存在する以上、どれだけ女性の管理職が増えようが構造的な暴力を排除する事は出来ません。
話しが脱線しかけたので戻りますが、
兎に角、我々は己の性に合った「らしさ」を他者、特に異性、に認められる事で男性または女性になるのです。
簡単に言えば自分が持とうとする「らしさ」と他者に求められている「らしさ」に根本的な乖離がある状態が世間一般に言われる性的マイノリティーという事になります。
では、根本的な乖離はない、しかし微妙に異なるという場合はどうなるのでしょうか?
例えば、ある女性は世間一般に求められる「女性らしさ」を持つことにプライオリティーを置いていない。
しかし彼女は自分の内面の性を女性であると信じていますし、恋愛対象は誰に何を言われたとしても男性です。
男性と恋愛関係になるためには「女性らしさ」が求められます。
しかし他方で、彼女は「女性らしさ」を求められることに嫌悪感があるわけです。
彼女は「女性らしさ」に嫌気がさしながらも女性でいたいのです。
こうなると、ある意味で性的マイノリティーの議論よりも複雑になる事が分かるでしょう。
この女性は女性という身体から脱出しながら、それでも女性として男性に恋をしたいわけですから。
そこで出てくるのがBLです。
BLの中に「女性らしさ」を測られる女性は出てきません。
それでも男性に恋をする事が許されます。
BLの世界に傍観者として没入する事で、彼女の悲願は達成されるのです。
そしてこれは百合のケースでも同じです。
「消費される同性愛」における現実逃避のリアリティーとは、
自身の身体から脱出しながら、自身の性のまま異性と恋愛するという、今までの創作とは全く異なったリアリティーなのです。
そういう意味では、BL・百合というのは
ジェンダーに関する議論が活発に話し合われるようになった現代社会の中でも未だ机上に上がらない、不安を抱えたマジョリティーたちの欲望を反映した作品群なのだと思います。
もしかすると、これからジェンダーがさらに深く考えられるようになれば、この現象は下火を迎える日が来るのかも知れませんね。
それはそれで少し寂しい気もしますが。
それではまた今度・・・。
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