【掌編小説】サワリワラシ

タッタッタッタッタッ……。
ポンポン、ぷにっ。
「……へっ?」

ポンポン、ぷにっ、へっ、である。
夏休みの夕暮れ、部活動を終え、高校からの帰路を一人で歩いていた時のことだった。背後から走ってくるような足音が聞こえてきた、と思ったら不意に肩をポンポンと叩かれて、振り返ると、頬に人差し指をぷにっと立てられる、そんな悪戯いたずらをされたのだ。
背後には、誰もいなかった。
今、頬を突いたのは、なんだ。気のせい、なんかじゃなかったよな。子どものような小さな手が、わたしの肩をポンポンって……。
背筋がぞわりと粟立あわだつ。わたしは前に向き直り、自宅への道を足早に急いだ。

その夜、わたしは妙な夢を見た。
うなぎの寝床のような、間口が狭くて縦に細長い構造をした木造住宅の、その最奥の座敷に布団を敷いて、わたしは毎晩眠っている。
その敷布団の枕元に、わたしは正座をしていた。足の親指同士を重ね合わせて、手は太腿ふとももの上に。すらりと背筋を伸ばして、布団の足元のほうを向いている。
深い夜。暗い闇。どことなく寒い。いつもは鬱陶しくて一度は必ず目覚めてしまうほど蒸し暑いのに、まるで樹海の川縁にでも迷い込んだかのように、ひんやりとした冷気が漂っていた。
それに、服装もおかしい。パジャマではなく、わたしは純白の和装束に身を包んでいた。
足先がピリピリと痺れているのを感じる。シーツの感触も、ジリジリと膝に伝わる正座の痛みもある。
気味が悪いほど、リアルな夢だ。そんなことを思った、その時だった。
……足音。足音が鳴った。
視界は真っ暗。敷布団の白いシーツに、着ている白装束、それ以外は、何も見えない。それでも、ここは確実に、わたしの寝室だ。
また、足音。タッタッタッタッタッ……。
誰かが、畳を裸足で踏みしめている。幼い子どもが、走り回っているような。
見えない。暗闇に、眼が慣れてこない。
タッタッタッタッタッ……。足音だけが響いている。
……この部屋に、誰かがいる。わたし以外の、何かが。
それに、身体の自由が利かない。夢だからだろうか、金縛りにでも遭っているかのようだ。座敷を見回すこともできず、わたしはただ、布団の足元のほうを見つめている。
タッタッタッタッタッ……。
……風。
一人。一人だけだ。走り回る一人の足音は、わたしの背後を横切ったり、布団の側を通過していく。その度に、ふっと冷たい風が頬を掠めた。
考える。
ああ、危ないな、これは。脳が咄嗟に判断する。
鼓動が胸を打つ。
この状況は、危ない。よく解らないが、今すぐに目を覚ました方が良さそうだ。いや、覚まさなければならない。
……早く。

……ポンポン。
その瞬間、強張っていた身体の金縛りが解けた。わたしは声も上げられず、咄嗟に振り返った。
「何してんの?」
背後には、母がいた。
明るい。障子から白い光が洩れている。
「へっ? ああ、うん……、ちょっと」
わたしはパジャマ姿で、布団の枕元に正座をしていた。
「起きてんなら、はやく上がってきなさい。もう朝ごはんできるから」
「ああ、うん」
「それと、お布団、干すから持ってきて」
エプロン姿の母は振り向きもせずそう言うと、スタスタと座敷を出ていってしまった。
「……わかった」
蝉が鳴いている。
……朝か。
わたしは胸の内で呟いた。べったりと、額や背中に厭な冷や汗をかいていた。
息を整えて布団から立ち上がり、痺れていた膝関節を擦りながら、わたしは座敷を後にした。

「座敷童でも遊びに来てたんじゃない?」
わたしが悪夢の内容を話し終えると、トーストにかじり付いた母は口をもごもごとさせながら言った。
「え……、うち、いるの?」
「冗談よ。軽い熱中症にでもなって、変な幻覚見てたんでしょ」
「……」
「気をつけなさいよ。奥のお座敷は建物の陰になっててひんやりしてるとはいえ、今年の夏はこまめにエアコンつけて寝ないと。倒れてからじゃ遅いからね?」
「うん、ありがとう」
過保護な母は一人娘のわたしを常に優しく気遣ってくれるが、それが時に鬱陶しく感じることもある。
「今日も部活?」
「うん」
「じゃあ、お母さんのほうが帰り遅くなると思うから、布団、取り込んどいてね。ベランダに干しとくから」
そう言って、母は手っ取り早く朝食を済ませると、パタパタと一階へと降りて行く。
わたし自身のこと以外の何事にも関心のなさそうな、気だるげな反応。母に、普段と変わっている様子はない。
「わかったー」
母の背に向かって平然とそう返し、わたしも席を立った。

「それは、サワリワラシかもね」
午前中、きたる二学期の文化祭の準備をしていた時にわたしがクラスメイトのカナコに同じことを話すと、彼女は怪しげに頬を吊り上げて言った。
「何、それ。サワリワラシ? 座敷童じゃなくって?」
「そうそう。たしか、物に触る、とかの『触る』って書いて、触童さわりわらし。座敷童の一種で、本当に触れられる子とか、自分に触ってくる子のことをそう呼ぶんじゃなかったかな」 
「実体があるってこと? お化けなのに?」
「んー、分かんない。昔、ちらっとおばあちゃんから聞いただけで、よく憶えてないや」
「適当だなぁ……」
「まぁ、座敷童の一種っていうぐらいだし、悪いお化けではないんじゃない? きっと、ナツキと遊んでほしいんだと思うよ」
カナコがそう言って笑うものだから、わたしの不安も幾分か晴れた。彼女はこのようなオカルトの類の話が好きだ。
「そうだといいんだけど」
本気で座敷童を信じているわけではない。でも、わたしは昨夜見た夢が、夢とは到底思えないでいた。

作業を一時中断し、昼休憩に入った時間を境に、わたしは文化祭の準備から離脱し、武道場へと向かった。
武道場は隠れるように、体育館の裏手にひっそりと建っている。
畳が敷かれていて、柔道部と剣道部の稽古、そしてそれらの体育の授業で主に使われている場所だ。数十年前に創立百周年を迎えたことを契機に校舎を一新した我が校だが、武道場はその旧校舎時代から唯一変わっていない建物らしい。
午前に使用していた柔道部と入れ替わるように、剣道部キャプテンのわたしは一番乗りで武道場へと足を踏み入れた。

……おかしい。
いつものように精神統一の黙想で始まった稽古。その途中で、わたしは気づいた。
ずっと、誰かに見られている。部員たちとは別の、何かに。
覇気に満ちた部員たちの声が響く。特にこれと言って、彼らに異常はなさそうだ。
体育館の陰になっているからか、昼間でもどことなく薄暗いのはいつものことだ。だが、夏真っ盛りだというのに、武道場は明らかに寒かった。冬に素足で立つ時ほどではないにしても、身体の輪郭を冷気が這いずり回っているかのような、不快な寒さ。それも、身に付けた防具の内側に籠る熱気のせいで、余計に、痛みにも似たピリピリとした悪寒が足裏から上ってくるような感覚に襲われた。
体調が悪いのとは、また少し違う。意識もはっきりしているし、稽古相手の一年生の子の動きもはっきりと見える。意識はひどく冷静なのに、いや、冷静だからこそ、この異様な寒さに脳が混乱した。
始めは防具を着る前に黙想を行うが、終わりは脱ぐ前に黙想を行う。それが、我が校の剣道部のしきたりだった。
練習を終え、部員全員を武道場の中央に正座で整列させ、その列の前で一人、彼らと向き合って同じように正座したわたしは、静かに目を閉じた。
「黙想」
そう言ったその時、それは再び聞こえてきた。
タッタッタッタッタッ……。
畳を踏みしめる、あの足音。
ああ、とわたしは思った。吐く息が震える。
白昼夢、違う、これは夢じゃない。
現実だ。入ってきてしまったのだ。誰かが。何かが。
二十人ほどの部員が集結しているが、武道場は静まり返っている。目を開けたら、わたし独りなんじゃないか、そんなふうに思えてしまうほどに。
その空間の静謐せいひつを掻き乱すように、何かが走り回っている。
タッタッタッタッタッ。
タッタッタッタッタッ。
タッタッタッタッタッ……。
足音は一定の間隔で途切れては、また鳴り響く。途切れては、また鳴り響く。
わたしは息を殺して、うっすらと目を開けた。

まず視界に入ってきたのは、白だった。
部員全員が、白装束を身に纏い、同じく真っ白の手ぬぐいのような布で目隠しをして、すらりと正座をしていた。
そして、わたしも。
防具は……。いや、着ている。身体はしっかりと覆われている、その感覚はある。頭も確実に面に包まれている、そのはずなのに、この目に映るのは白装束。
視界はひどくクリアで、部員一人ひとりの集中した口元がはっきりと見えた。
呆然とその光景を見ることしかできずにいると、ついに、それは姿を現した。
タッタッタッタッタッ……。正座している一人の部員の背後の陰から、その隣、わたしの正面に正座する部員の背後へ。
子ども……女の子。同じ白装束を着た、女の子。小学校低学年ぐらいだろうか、おかっぱ頭の髪や、装束の裾から覗いた素足は雪のように青白く、対照的に、長い睫毛まつげと大きく丸い黒目が目を惹く子だった。
女の子は、部員の背後で立ち止まった。
そして、ポンポン、とその子の肩を叩いた。
その子は、振り返らない。肩を叩かれたことに気づいている様子もない。
白装束の女の子は首をかしげて、再び走り出す。
タッタッタッタッタッ……。そして、さらにその隣の部員の肩をポンポンと叩く。そしてまた、首を傾げて、走り出す。
わたしは、確信した。
全員が、同じ姿勢、同じ格好。均等に整列し、白装束に目を隠し、正座をしている。だから、彼女は一人ひとり肩を叩いて呼び掛けて、武道場を回っているのだ。
――それは、触童かもね。
――きっと、遊んでほしいんだと思うよ。
脳裏に、カナコの言葉がよみがえる。
タッタッタッタッタッ。
タッタッタッタッタッ。
タッタッタッタッタッ……。
わたしは固く目を閉じて、震える唇をつぐんだ。
探しているのだ。遊び相手を。振り向いてくれた、わたしのことを。

タッタッタッタッタッ……。
足音。近付いてくる。
……ポンポン。
気配。
……いる。確実に、いる。女の子が、触童が、背後に。

……ポンポン。
二回目。振り返っちゃダメだ。
昨夜見た夢と同じだ。
危ない。脳が危険だと言っている。

「……でしょ?」
声。声を、掛けられた。かすれたような冷たい声だった。
「えっ……?」
あまりの恐ろしさに、思わず、口から声がれてしまった。
「あなたなんでしょ?」
あなたなんでしょ、と言っている。人ならざる者が、わたしに、そう、問うている。
なんのことだ。昨日振り向いたことだろうか。それとも、昨夜の夢の中でも肩を叩かれたことだろうか。
解らない。恐い。
「……ごめんなさい」
気づけば、そんなことを、わたしは言っていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。振り返ることなく、口だけが勝手に動いて、謝っている。
「……これ、あたしの。あなたのじゃ、ない」
女の子はそう言うと、また再び走り去っていった。
タッタッタッタッタッ……。
わたしは、ただ、謝り続けた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
「……」
遠のく足音が止んだ。
わたしは大きく息を吸って、呼吸をふっと止め、それからゆっくりと、口から細く息を吐いた。ざわついていた鼓動が、平静さを取り戻していく。
うっすらと目を開ける。わたしは面をかぶっていた。部員たちも全員、白い装束に白い目隠しではなく、胴着を身に纏い、面をかぶったまま目を閉じていた。
「黙想、やめ」
最後に残ったひとつの息を吐いて、部員たちに指示を出す。彼らはふっと目を開けると、何事もなかったかのように立ち上がり、いつも通り防具を脱ぎ、武道場の掃除や片付け、着替えに取り掛かった。
ごめんなさい、とわたしは黙想中に唱えていた。そのはずだが、部員たちがわたしのことを気にしている様子はない。聞こえていなかったのか、それとも、そもそもわたしが声に出して言っていなかったのか。
何も、解らない。
――これ、あたしの。あなたのじゃ、ない。
少女の言い放ったその言葉だけが、わたしの頭の中でいつまでも渦巻いていた。

武道の心得というのもあるが、危険な猛暑ということもあり、武道場ではだらだらとしない。
二時間だけ、毎日決まった時間に集中して稽古をこなす。終わればすぐ武道場を掃除して、着替えて終了だ。
昼下がり、わたしは部員たちと武道場を後にして、自分のクラスへと向かった。教室では、依然として文化祭で行うクラス発表の準備が進められている。
「ナツキー、やっほー」
扉を開けて午後の作業に合流すると、わたしに気づいたカナコが駆け寄ってきた。
わたしは目を見張った。
「……やっほー」
「あれ、体調悪い?」
「ううん、平気」
わたしは汗ばんだ顔を手でひらひらと扇いで、精一杯、笑って誤魔化した。すると、カナコは思い出したように口を開いた。
「そうそう、今朝話してた、サワリワラシのことなんだけどさ」
「ああ……、うん」
「昼休み中に家帰って、おばあちゃんに訊いてみたんだけど、あれ、物に触る、とかの『触る』じゃなくて、目障り、とかの『障る』って書いて、障童さわりわらし、って言うんだって」
「……障、童」
「そう、障童。なんか、過去に親から『目障りだから』って見捨てられて、育児放棄されたり殺されたりして、そのまま死んじゃった子どもの幽霊みたい。自分と因縁がある子の肩をポンポンって叩いて、振り向いたその子の頬にぷにっと人差し指を当てる、あの悪戯をしてくるんだってさ」
「……因縁?」
「そう、例えば、お母さんのお腹の中で一度流産しちゃって、その後にちゃんと生まれた子、とか。それこそ、本当に親が一度我が子を殺してて、その後にもう一度生んで育てた子、とか。で、そういう、自分が死んだ後に生まれて生きている子が振り向いた矢先に、恨めしそうに言うの。『あなたが送っている人生は、本来、あたしが送るはずのものだったのに』って」
カナコは両手を胸の前でだらりと下げて、幽霊のような高い裏声で言った。
――あなたなんでしょ?
――これ、あたしの。あなたのじゃ、ない。
「何……、それ」
「んー、もしかしたら、ナツキのお母さん、過去に、ナツキのお姉さんにあたる子を流産しちゃった経験があるのかもね。それでも、座敷童の一種だから、悪霊ではないらしいんだけどね。一緒に遊んでくれる人を探してる、無害な幽霊だ、って、おばあちゃんは言ってた」
「そう、なんだ。なら……、いいんだけど」
わたしは、カナコの背後から不思議そうにこちらを見上げている白装束の女の子と目を合わせながら、そう呟いた。

そこで、わたしは、はたと気づく。
――もしかしたら、ナツキのお母さん、過去に、ナツキのお姉さんにあたる子を流産しちゃった経験があるのかもね。
どうして、カナコは、お姉さん、と言ったのだろう。わたしは、武道場で女の子を見たことは、まだ、誰にも……。
「それとも……」
「……?」
わたしはカナコに視線を戻した。
「ナツキのお母さんって……、過去に……、自分の子どもを殺してたりして」
カナコは、ぐらりと笑った。その声は、掠れたような、背後に立つ女の子の冷たい声だった。

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