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本音と人格とメタバース

 メタバースを取り上げた新聞記事で、企業での利用者のこんな声が書かれていた。
 アバターとなって参加するメタバース空間では、自分を表現しやすく腹を割った交流が出来る、と。

 これはtwitterをはじめとした匿名SNS上で自由過ぎる言論が行われることと相似している。身バレしなければ自由に振る舞えるというのは犯罪者と同じ心理だが、それ程までに現実の社会は息苦しく肩身の狭いものになのか。あるいは別の身を纏って生きる場所が精神衛生上必要なのか。

 リアルな肉体をさらした状態では自分らしさを表現出来ないとは皮肉な話だ。自分探しをした結果、本当の自分はアバターにありましたというのだとしたら笑える。
 しかし話はそんなに単純でも面白くもない。
 好きなファッションに身を包まなければ自分らしさが表現出来ないと言っているのとあまり変わらないからだ。人は見た目が九割などとも言われるのは、見知らぬ人が相手の場合だ。相手に対して見た目で自分らしさを表現しなければならないのは、その相手が身内ではないからだ。つまり、武装が必要な環境ということだ。
 好きな服を着るのが悪いと言っているのではない。服によって自己表現するのは自由だが、そのような武装を纏わないと腹を割って話せないのだとしたら、それはアバターと同じであって、メタバースを馬鹿には出来ないというわけだ。

 逆に言えば、私達はリアルなコミュニケーションが出来るコミュニティからとっくに切り離されていて、そういった建前の中で本音は小さくしまい込まれている。飲みニケーションなどと言って酒というアバターを着ることで親密になれる、なんていうのは昭和の時代からあった。
 SNSを含めたネット空間での生活時間が増えるに従い本音はどんどん縮小し、今や簡単には遭遇出来なくなっている。それが、自分の核をアバターという殻に包んでメタバースという異空間に放り込むことで気兼ねなく振る舞うことができ、かえって自分を開放できるのだから、そこは貴重な世界となるのだろう。

 考えてみると、リアルとアバターの違いは、相手の視線にある。もう少し正確に言うと、相手の視線の先にあるものだ。
 リアルな視線はコワイ。見透かされているような気がして、あるいは気恥ずかしさを覚えて相手の目を見て会話が出来ない人は多いだろう。そうでなくても、お互いの目をじっと見据えて会話をしたことが、あなたは最近どれだけあるだろうか。

 相手が酔っ払いであれば、その視線が捉えるものはぼんやりしているはずだ。相手がアバターであれば、相手が見ている自分も自分が見ている相手も、どちらも本人とは全く関係のない何かだ。だから相手の視線は怖くない。
 つまり、たとえ本音で言ってもそれがリアルなあなたの本音かどうかは誰にも分からない。分かるのは、それがアバター「あなた」が発した言葉であるということだけだ。どこの誰だかわからない匿名の誰かではないものの、紛れもなく「あなた」と紐付いている発言と分かる。そこが匿名との違いだ。
 アバターだからこそ逆に本音を言える。嫌われたとしても嫌われるのはあなたではないからだ。嫌われるのはアバターが発した言葉だけだからだ。
 要するに、アバターでも酔っぱらい状態でも、あなたの意見とあなたの人格は別ですよねという感覚で会話が出来るから、メンタルがダメージを受けにくくなる。だからこそ腹が割れる。

 素面しらふのリアルな世界でもそのスタンスでいられれば、気楽で自由で建設的な会話が出来るはずだ。しかし世界は人格と意見をごっちゃにしている人で溢れている。

おわり

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