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不条理短篇小説

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現世に蔓延る号泣至上主義に対する耳毛レベルのささやかな反抗――。
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2020年12月の記事一覧

短篇小説「言わずもが名」

短篇小説「言わずもが名」

 かつてはこの国にも省略の美学というものがあった。

 たとえば俳句。に限らず会話や文章、そして商品のネーミングに至るまで、語られていない行間にこそ価値がある。そこに粋を感じる悠長な時代がたしかにあったのだ。いやあったらしい。私はそんな時代は知らない。物心ついたときからすでに、省略は不誠実と見なされ罰せられる、何もかもが説明過多な時代がすっかり完成していたのだから。

 もちろん説明過多というのは

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短編小説「漕ぎ男」

短編小説「漕ぎ男」

 男が自転車を立ち漕ぎしている。 文字通り、サドルの上に立って。ペダルまでの距離は遠いが、いまは下り坂なので問題はない。上り坂が来ないことを祈るばかりだ。

 やがてサドルの上に立って進む立ち漕ぎ男の脇を、座り漕ぎ男が追い抜いてゆく。座り漕ぎ男もまた文字通り、地面に座ったまま自転車を漕いでいる。もちろん尻は熱い。 

 と思いきや、ボトムスの尻部分には二個のローラーがついているので熱くない。なので

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短編小説「キュウリを汚さないで」

短編小説「キュウリを汚さないで」

 工場の真ん中にテーブルがある。テーブルの端で男Aがキュウリに泥を塗っている。

 その隣の男Bがたっぷり泥のついたキュウリを受け取ると、シンクへと走りそれを丁寧に洗う。男Bはそのキュウリを、シンク脇に引っかけてある泥まみれの布巾で拭く。キュウリは再びドロドロになるが、このドロドロは男Aがもたらしたドロドロとは何かが違う。何が違うのかは誰にもわからない。

 ドロドロのキュウリを預かりに男Cがやっ

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短編小説「脂肪動悸」

短編小説「脂肪動悸」

 いつもの道を、歩いていた。天井裏かもしれない。天井裏だとしたら、頭がつっかえるはずだがそんなことはなかった。ならばそれは駅へと向かういつもの道だ。

 だけどねずみを見かけたような気がする。ねずみは天井裏にいるべきだ。いやどぶの中という可能性もある。なにしろどぶねずみというくらいだから。

 じゃあどぶねずみ以外のねずみはいったいどこにいるのか。天井裏ねずみというのは聞いたことがない。必ずしも名

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短編小説「坂道の果て」

短編小説「坂道の果て」

 大学受験当日の朝、満員電車から予定通りスムーズに脱出した嶋次郎は、受験会場である志望校へと続く坂道を歩いていた。右へ左へうねりながら延々と続くその登り坂は、まるでこの一年間の道のりのようだなと思いながら。

 だが嶋次郎がこの道を辿るのは初めてではない。それは彼が浪人しているという意味ではなく、彼は何度もこの道を実際に通ったことがあるということだ。

 嶋次郎は予行演習と称して、受験前に何度も志

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