見出し画像

妻にイラつかれ、子に無視され、部下の視線が痛い…。社会に居場所がないとされる「おじさん」は本当に無価値なのか?『帰らないおじさん』

【レビュアー/工藤啓

新たな時代の犠牲者

今日もどこかの公園で、定時で退社した「おじさん」たちが集まり、家庭でも会社でもないゆるやかなコミュニティを形成しているかもしれない。

日本の家庭は「父親の残業」ありきで考えられていた

自宅に戻れば専業主婦の母親が待ち、食卓には母親と子どもたちが夕飯を食べる。当たり前の父親不在の光景は、家族のそれぞれに父親不在における最適な暮らし方を構築させる。

それが「昭和」という時代の一般的な家庭像として語られ、実際のそのような家庭で育っていない人間にとっては、想像しづらいかもしれない。

残業が日常に組み込まれ、残業代が家庭経済を支える土台を形成する。父親は深夜に帰宅し、翌朝早く会社に向かう。

その「当たり前」が崩れた。生産性向上、多様な就労形態の実現、残業はよくないもので定時退社による長時間労働の是正。いまの働き方があわないひとにとっては未来の希望、この働き方が常識のひとにとってはただの日常。

しかし、そんな当たり前の崩壊は、人生の過ごし方、日常の回し方がそれを前提としてできあがってしまった「おじさん」にとっては、毎日が非日常であり、その変化に戸惑い、孤立していく。

"父親がいなくても円滑に回る家庭サイクル”が強く根付いていただため 役割の無い者の早い帰宅に妻はイラつき 成長した子供は口をきいてくれず 収入減少で肩身は狭い

会社に居残ろうとしたところで 帰らない上司には若手社員の熱い「まなざし」が向けられる

会社にも残れず、自宅に居場所がない社会変化が生み出したのが『帰らないおじさん』である。

おじさんは何をしているのか

夕方、公園に集まるいつものメンバー、いつものおじさん。昭和の話題で会話をつなぎ、昭和の遊びで時間を潰す。若者たちはそんなおじさんを見て、思う。

何してんだろあの人

会社を定時で出なければならなくなったおじさんたちは、自分たちのタイミングで公園に集まる。「おつかれさまです」「どうもどうも」そんな挨拶とともにベンチに座る。そして会話をすることなくぼんやり日が暮れていく。

これが、おじさんたちの活動「呆活(ぼうかつ)」である。

本作に記載の説明によると、

呆活とは、ボーッとすることで日々の疲れを癒すこと

とある。アフター定時のおじさんは、公園で疲れを癒しているのである。

カバンから一袋のグミを取り出す道端のおじさんは、ぼんやりと夜の空を見る。通りすがりのデート前の女性がおじさんに目を留める。最近見つけたお気に入りのグミを食べるおじさんの姿に、初デートの待ち合わせ時間を忘れかけるほど、ひとりグミをほおばるおじさんの影響力、破壊力

おじさんはアフター定時で、夜空に浮かぶ月を見ながらグミを食べている。これを「月見食い」と呼ぶ。

昭和を生き抜き、家族を自立まで導いたおじさんたちは、若い世代にとってはそれなりとなる貯金が自宅にある。それは老後の備えでもあり、これまで子どもたちに費やしたお金が不要となり、さりとていきなり散財に走るほど、暮らしの経済が変わるわけでもない。

貯金額がまぁまぁあるおじさんたちの遊びは、そう、「スリルショッピング」

数万円の洋服も、数百万円の時計も、キャッシュで買える貯金はある。買えてしまうだけの現金がある。

でも買わないし、買えない。

"ドカン"とある金を"チビチビ"使うことを強いられている 一発で使えなくはないのに・・・ ドカンとね・・・

ということを考えながらショッピング街をウロウロする定時後の暇つぶし。もしそれをしたらどうなるか。それができる自分にドキドキしながらスリルを楽しむ仕事帰りの一幕。

帰らなくていいおじさん

一見すると『帰らないおじさん』は、社会からの孤立を余儀なくされ、孤独を癒すべく公園に集まる人間のようにも見える。

いや、公園に集まれる、公園に仲間ができるおじさんはましなのかもしれない。ひとがひとで癒される、回復することを「ひと薬」と呼ぶこともある。疲れた日常のアフター定時にぐいっと「ひと薬」を飲んで元気に。

では、それがないおじさんはどうしたらいいのだろうか。孤立や孤独が先進国で社会課題とされている。その文脈で「おじさん」があまり出ることはない。なぜなら、会社と言うコミュニティ、家庭という居場所があるように見えるからだ。

しかし、『帰らないおじさん』を通じて私たちが想像するのは、社会の側から「ある」とみなされる居場所も、そのひとにとっては安全も安心も得られない場所かもしれないこと。あったはずの居場所が、社会の変化によっておじさんを排除する仕組みが無意識的に実装されているかもしれないということだ。

そう考えると、孤立や孤独の対策においては、本書で描かれるおじさんたちもまたメインストリームを形成する存在として位置付けるべきなのかもしれない。

ただ彼らは本当に「社会的な課題としての存在として」のみで見るべきなのだろうか。身体は元気で、多くはないかもしれないが預貯金もある。何より現在、仕事をしていながらにして時間がある。

副業や兼業という流れには乗らないかもしれないが、彼らの持つ知識や経験、何よりも時間という社会リソースが、寂しさや所在の無さによっておじさんコミュニティ内で消費、浪費されていくのは非常にもったいない。

少なくとも孤独なおじさん、孤立したおじさんをどこかに集めようとするのは悪手だ。現実的に戸惑いや寂しさはあっても、苦しい日々を過ごしているわけではない。むしろ、私たちは彼らがゆるやかに形成するコミュニティに、積極的に足を運び、「これを手伝ってもらえないだろうか」「こういうことで力を貸してほしい」と声をかけていくべきではないだろうか。

ひとから頼まれる、お願いされることをうとましく思うひともたくさんいることは承知しているが、誰でもいいから集まってではなく、「あなたが必要なのだ」という明確なメッセージを持って、お願いされることは多くの人にとって煩わしくとも嫌な気持ちにはなりづらいはずだ。

人生を駆け抜け、まだまだ先長く歩むおじさんたちは、私たちの社会の希望だ。彼らは『帰らないおじさん』ではなく、"帰らなくてもいいおじさん"であり、経験と時間という大きな価値を持った存在なのである。

そう考えると『帰らないおじさん』たちの見え方はまったく別のものになるはずだ。


この記事が参加している募集