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表現しない表現の仕方

もっと早く気付くべきだった。私は同窓会も行かなくて良いし、飲み会に行かなくたって良いし、オールなんてしなくたって良い。

SNSで楽しい日常をアップしたり、大勢の友だちと盛り上がってる写真を撮ったり。自分の表現の仕方を知らなかった私は、みんなの真似をしようと試みた。でも、それでは心は穏やかにならなかった。

昔から、昔というのはいつからだろうか。少しずつ気づき始めたのは中学生の頃だった。中学一年生の私は、所謂、クラスの中で目立つ位置にいた。というのも、目立つ子と一緒にいる時間が多かった。その子のことは大好きだったし、楽しい時間も多かったけど、なんだかずっとぎこちなさがあった。自分が楽な時間は、その子と一緒にいる時間であって、その位置にいる自分では無かった。まあそんなものも一年で崩れていくのだけれど。

数年前、中学一年生の頃の私を知っている部活の先輩に、中学卒業以来初めて、10年以上ぶりに会った。私の職業について、とても驚かれた。そうだろうなとは思う。私も、中一の頃の自分がこんな職に就いているなんて想像できない。でも、それは、周りから見た自分は、ということであって、自分の中ではそれほど大きくかけ離れてはいなかった。

中学三年生になるころには、そんな自分にすっかり疲れ果てていた。体育祭の打ち上げだ、文化祭の打ち上げだ、と中学生ながらに行われていたけれど、もうその頃から、行きたいとは思えなかった。ただ「打ち上げをする」行為には憧れていた。帰るのが◯時を過ぎた、という武勇伝も作りたかったし、打ち上げの写真をみんなで撮ってみたかった。その頃は、自分の気持ちを整理出来ていなかったから、親が厳しいし、という理由をつけて断った。家に帰ると「あんたの学年は、お姉ちゃんのときみたいに打ち上げは無いの?」と聞かれた。なんて答えたかは、覚えていない。

ずっとこんな感じで過ごしてきた。大学生の頃はサークルも合コンも飲み会にも参加したかった。でもしたくなかった。この矛盾を説明出来なくて、私は本当はどちらを望んでいるのか分からなかった。
今思えば、「サークルに入っている自分」や、「合コンにいったことのある自分」「毎週末に飲み会に参加する自分」になってみたかったんだと思う。でも、私は本当はどれも好きでは無かったし、どれも好きでは無い生き方があることも、知らなかった。

自分の表現の仕方を知らない私は、みんなの真似をして友人との写真をSNSにあげた。でも本当に楽しかった日は、写真撮ることさえ忘れて楽しんで帰宅し、心をほかほかにして少し微笑みながら布団に入った。そんな日はよく眠れた。

私が自分を素直に表現する生き方は、表現しないことだった。表現しないというのは本当は少し違っていて、表現を模倣すること、と言った方が正しいと思う。若かった頃は、自分の表現の方法が身についていないことは仕方のないから、創造することは模倣から始まることは多い。でも、「みんなと一緒」「人に嫌われたくない」「人に嫌な思いをさせないためには」といったことをもんもんと考えてきた私には、クリエイティブな表現は怖く、模倣から抜け出す勇気は少しも無かった。

表現とは目に見えるもののことだけを言うのでは無いんだと今は少し思う。「自分らしく」「自分の気持ちに素直に」なんていうよく耳にするそのことばはバカに出来ない。そういう生き方は、もうすでに自分を表現しているんじゃないだろうか。
あえて何かを作り上げる必要はなかった。ただ素直に、悩んだり苦しんだりしながらも、自分に嘘をつかない、それだけで、自分自身を表現しているんじゃないかと、最近少し、思っている。


表現しない方法を自分の生き方の軸として生きていこうと納得できた私は、今日もこの場で、自分を表現しようと試みている。

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