自己発信が交友関係をせばめているかもしれないと思った話
自分は交友関係を狭めているのかな、と思ったのは、わたしの自論がきっかけになった。
わたしはこの間、「頑張れで頑張れなくなった現代人へ」というnoteを書いた。
内容は、頑張れという言葉が嫌い。それは一方的な感じがするし、無機質な感じがするし、無理しないでねの方が優しい感じがするからというかんじ。
もし、気になったら読んでみてね。↓
このnoteを書いてから、さまざまな友人から反響をもらって「こう考えているのはわたしだけじゃなかったんだ」と、すこし、安心感も感じた。そして、直後は、「書いてよかった」と思っていた。
だが、ふと考えてみると、「これは自論を押し付けすぎているのではないか」「頑張れが嫌いと書いたことで、頑張れが好きな人の立場を完全に否定してしまったんじゃないか」「そもそも、わたしが嫌いなこと・好きなことを公言することによって、デメリットしかなかったんじゃないか」という思いが巡るようになった。
けど、そういうことじゃないんだよね、noteって。
わたしの好きな言葉に「批判も罵倒も他の人の場所でやるな。自分の居場所で発信しろ」というものがあるんだけど、今回は本当にその通り。
見るも見ないも個人の勝手だし、わたしの自論が「無理!受けつけない!」と思ったら、何事もなかったかのように閉じればいいし、もし「素敵!」と感じてくれたなら勝手に共感したり、コメントをすればいいだけのこと。
この記事だけじゃないけど、わたしは人間関係(世界)を狭めているんじゃなくて、明確にしているだけ。
いま、わたしが見ている世界を自覚して、自分の中で線引きできるように可視化しているだけ。
そう考えて、少し考えが落ち着いた気がする。
そして、わたしが不安に思った要素の1つにnoteとTwitterの違いというものがある。境界線ギリギリのことやアブノーマルなことをTwitterに書き込むと、すぐ炎上したり批判コメントが殺到してしまうかもしれない世界というのが、わたしのTwitterの捉え方だ。
それに比べてnoteは穏やかで、批判コメントをする労力があるならもっと素敵な記事に巡り合いたいと考えている人が多い気がする。実際にいまのところ、批判コメントは見たことがないしね。
この、淡泊に見えて、読み手が100パーセント自分の意志で「いいね」をするnoteがわたしは素晴らしい場所だと思う。これこそTwitterを批判するわけでも、利用したくないという気持ちがあるわけではないけれど、noteのシンプルさ・正当な評価が受けられる点は、唯一無二の存在だなと感じている。
なんだかまとまりがなくなってしまったけれど、わたしは自己発信(世界を広げる行為)は好きで辞めることはないし、noteとおいう場所はもっと好きだと感じた出来事になった。
もっともっと、読みやすい文章になるように工夫していかなきゃなあ。
自分、無理せず自分のペースでやるんだぞ。
では、皆さん。
良い一日になることを祈っています。
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