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「一人になれれば、くつろげる」とは、「そばに来た人間は、法則性がわからない危害を自分に加える」と現場教育されてきた、ということ。

四郎が「友達・兼・親友」を一人きり、生まれてはじめて作ったのは、社会人一年目のとき。

それ以前は、黙って本を読んでいることで、一緒の空間にいる人が声をかけない状況を、うまく作ってきた。

高校生から社会人になって、これが全く愚かな対策だったことを、遅まきながら知った。

せめて、小学校高学年か中学校あたりで、誰かに教わりたかったものだ。

そもそも、サポート側にいた教員たちは、忙しすぎて「四郎に一人も友達がいない」ことさえ気づいてはいなかった。
祖父と父の厳命により、学校では優秀な児童生徒で通したから。

友達を作るな、という祖父の遺言も、四郎は全く守り通していた。
ひとりの友達も作ることはなかった。ただ無口で、人当たりは悪くなく、公共の場で他の生徒を適切に助けていれば、「人間関係に問題がある」と見破るものはいなかった。

虐待された子供がサポート側に、ケアする側に回ることを、「わけがわからない」という健常者がいる。
被虐待側からすれば単純な理屈で、サポートやケアの行動には、非常にわかりやすい法則性があって、身につけやすい上に褒められるという報酬がつくのだ。公共の場で褒められれば、虐待者に加担していさえすれば、虐待者の虐待は、著しく「まろやか」に程度が落ち着く。そこを狙ってのことだ。

虐待者の言い分や虐待者の自己正当化した説明で社会や他の大人が納得し、自分の訴えなんか誰も本気にしないことぐらい、学習済みだ。

気配で人の動きを察知するのは、もともと得意だ。

だから、さほど苦もなく、ケアする側に回ることができる。

楽しいか? と言われれば、
「一人で本を読むか、一人で眠るか…以外に、何が楽しいものか」と、

答えるだろう。


たくさんの友達は、とても疲れてしまって、作れないのだった。

なぜかというに、
人の気配を読める…という特技は、案外消耗するらしいのだ。
案外、「楽しめなさ」や「苦しさ」が蓄積していく…といったほうが、より、正確な表現だろうか。

自分以外の人間がいるところで、その人間がどういう動きをするか、無意識に気配を取っている。

この「気配を察知する動き」が、
無意識にずーっと動いているのだ、と、
気づいてはいるが、やめ方がわからないのだ。

父母をはじめとする同居家族は、安心を中断し続けることで「油断大敵」を不意に教えてくる存在でしかなかった。

母親は、法則のわからない何かの決まりに従って、嬰児の世話を中断してどこかへ呼ばれてしまう。

父親は、法則のわからない機嫌の豹変を、周りのものにぶつける。

泣くと叩かれる。
日本語がわかるようになると、「誰それがお前を投げてよこした」などとも告げられる。
床板に打ちつけられるのは日常で、下手をすると小さな怪我ではすまず、骨折もする。

さらに気配を伺うことが上達していく。

長じてあらゆる泣き言を噛み殺すと、ようやく「それが当たり前」というフィードバックをもらう。
褒めてもらうということは、3歳のとき切腹作法で褒められたのが一番大きな報奨で、あとの「よし」は、非常にまれであった。

自死の作法を褒められる、ということは、生活のトーンに、おかしな偏りをもたらすものだ。

人間という生物は、そういう性質だ、という「負の英才教育」を、とことん、受けている。

ひとりになって、ようやく、くつろぐ…間もなく、疲れて眠りこける。

はじめて文章にしてみたが、

歓迎会のあとでグループでかたまって誰かを待っているとき、焼け付くような違和感を覚えたのは…

それが「今まで学ばされて来た状況においては、非常に危険」なシチュエーションにあたるから、なのだった。

仲間とくつろぐ、などという体術・体感教育を、一切受けていない。それらは怪我や骨折という危険と紐づいているばかりだ。

他人からの働きかけは、機嫌に左右され法則性がない、というランダムイベントの、常に安心の中断か叱責か攻撃、罵倒または暴言、不足なところの指摘…そればかり。

と、無意識に学習が徹底されている。

これから、少しずつ、この反対のことを、意識・無意識・身体運動・細胞の反応、神経の伝達レベルで自己教育していく。

厳しい、厳しいところにいたその同じボリューム同じ訓練法でなくって、なんとか、拍子抜けするほどかんたんな自己教育であるといいのだが。

まだ、何をどうするかは、皆目わからない。
どうか、未来が良いものを手渡してくれますように。

こんなふうに四郎が文章を書いても、とてもとても落ち着いていて、大した問題ではないようにしか思われない。人間は、パニックになって騒ぐものの方を「危険が大きい」と間違えるのだ。

ちがう、ちがう。

誰も助けてくれないから、自己分析して客観的に仕組みをみようと試みているにすぎないのだ。

虐待された人間個々の内的世界なんて、誰一人「詳細に察する」能力なんか、持っていないのだから。

この文で、少しだけ、状況がましになりますように。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!