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人体の工事の順番に、さからわない。【物語・先の一打(せんのひとうち)】66

いまやすっかり、夜も十時半をまわっていた。
高橋は自分の部屋へ戻り、四郎と奈々瀬は自分たちの部屋で横になっていた。

奈々瀬は四郎が書き流した原稿の感想を述べた。表現しきっているかどうか、だけが奈々瀬にとっての「問題」であって、話の順序とか組み立てとかはどうでもよいという位置づけになっていた。

「できている」「いま、機能がある」部分の「やりきったか、やりきれていないか」だけを見て、「できていない」部分を “指・摘・し・て・は・い・け・な・い” のは、 な ぜ か 。

それは、

「身体能力の構築について何も知らない素人が、傍からあれこれ言う資格を一切持たない」

という、一つの燦然と輝くおきての前にひれ伏している、それだけのことでしかなかった。

つまり奈々瀬は、「できてない部分を指摘するほど無知ではなかった」。

指摘してはいけない、というよりは、「どうして無駄に指摘するほど無神経な阿呆でいつづけられるのかが不可解」、といったほうが正しいだろうか。

身体情報読みの奈々瀬は、ひとつの経験知を持っていた。

もしもたとえば、現時点において、虐待で脳の一部が委縮していたり、発達段階の途中で凸凹と評される神経の網羅がいまだ及んでいない技能があったり、不慮の事故や栄養・資源・環境不足や、たとえば臓器の復旧を先にするために対人スキルの一面は未発達、などのスキャンができるとする。

すると、「今、損壊させられた部分や未発達の部分について、その人の生命そのものが構築工事を後回しにしようとしている」と読み取り、その大胆さに立ちすくむことがよくある。
そしてその三倍以上の密度、もっと集中してアリや蜂が巣を構築するよりいろいろな血流やリンパが群がったような、

「神が黙々と道路工事をしている!」

としか思えないほど、異様な密度で発達構築をやりとりしている部品部分が、必ずその人の体の、べつの機能の一部分に存在する。

つまり総合的に身体情報の把握ができる人間にとっては

「ここを先に構築するために、この人の生命そのものが、あとのことはすべて放り出している。それを本人も説明できず周囲も理屈がわからないので “生きづらい” という折り合いのつかなさと苦痛に満ちた一過性の表現にとどまっている。だが、発達構築を集中させている生命そのものにとっては、 “生きづらい” などという不要な他者集団に過剰適応した感情表現は、“は?何言ってるの?生きるためには今この戦略戦術で間違いなく最善手なのに、権限のないものが、何勝手な文句言ってるの?” くらいピントがはずれていて、てんで問題にもならないという事実がその人の体のなかで同居実現している」

という、大脳が間違って興味をもってしまった、社会生活という食えもせず完成度も高くないふしぎなものを、「本心ではやりたくないのにお体裁上やりたい」と無理なだだをこねている大脳に

「ばかもやすみやすみいいなさい」

と体細胞が説教をしているような、そんな風景に思わず笑ってしまうのだ。
“生きづらい”という感覚は、“あきらかに自分にとって不適切な他者環境に、無意味に合わせようとしすぎている”という、間違った学習についての正しいフィードバックにすぎないのに。そう、食べる寝るの基本行動に自分以外の侵食がない瞬間、そこで生きづらいと感じたりはしないのに。


身体情報読みの奈々瀬にとっては、四郎の中にためこまれた文献の数々に照らす経験で言えば、それはまるで

「静まれ。私が神であることを知れ。」と聖書にあるとおり

いのち、という言語をもたない神が我々に権威をつたえてきている、そんな風景に合致するのだった。
優先してはいけないものを優先している。その不必要なこだわりとしがみつきを中止すれば、“生きづらい”という感覚は緩和する。なぜ、学びなおせないほど、誤った学習に硬直してしがみつきつづけるのか。

いのちは、我々に、そう権威をもって語っているのだった。

「話の構成をまずつくる」とか「人に伝わるかどうかの吟味を先にする」とか、「もう少しこうしたほうがいい」などという「現象面で今欠けていることの指摘」なんかを無知にまかせて行ってしまったとしたら、

「定型発達していないと〇〇できない」「虐待された脳では〇〇できない」
という間違った学習を強化することになってしまう。それだけは避けねばならない、奈々瀬にはそう了解できていた。

そもそも、有機物である人間が、工業規格品のようにあちこちをまんべんなく発達させ得る、という誤解がまかり通っているのがふしぎだった。有機物は有機物らしく、高密度に完成した核となる部分から、補完的に後になっていろいろな部分へ神経を伸ばしていく。構成をつくるだの人に伝わるかどうかの吟味をするだのという、四郎にとっての核以外の「辺境部分」は、いま、てんで工事区間外だった。話の通じる人の中にはいなかったのだから。それだけのことだった。

いのちが「そんなもん、あとでやるからいい」と言っている!だから静まれ、その命令に従え!

それに従っていないという不服従が「生きづらさ」という表現でしかなかった。


奈々瀬が黙っていたので、四郎は少しだけ安心して、「自分なりのつれづれバナシ」を口に上らせた。
好きな女の子が聞き役をしてくれるなら、調子に乗って自分のことを語る、という、小さな男の子には必須の、今まで誰とも行い得なかったことを行っていた。
聞き役という役割分担には危険性があって、聞き役はしてもかいがいしく世話をするという行動に徹してはならない。よく「糟糠の妻」がぼろきれのように捨てられて成功した男が若い女に乗り換えている現象が世間において見られる。これは男の脳が「おかあさん」という認識をした相手から思春期を経て独り立ちするという発達に従って起こる、ともいえる。父の安春が四郎に

「奈々瀬をお母さん役にするのはやめなさい」

と釘をさしていたのは、この点だった。

「俺は未来に向けて誰も受け取る保証のないリレーのバトンを放るように書くんや。今の自分の足元を向けて書きよったら、あんがい俺も商業が成り立つものをかけるようになるのかもしれん。けど俺はそういう育ち方はしてこなんだ。誰もおらんときに本の中の大人が相手してくれた。そういうふうに育ってきた。
居場所のない子は図書館へおいで、という呼びかけは、俺はたしかに覚えとる。けど、長居はできやへんのや。俺、知っとる。
図書館には本の好きな子のふりして、本たくさん借りに行って、すぐ帰ってくるんや。

司書の先生やほかの先生と話すときは、自分の身の上の問題なんか相談しやへん。問題を隠す子は、自分の決心で隠すんや。なにかあったら大人に言いなさいてっていいつけが、そもそもしたことのない、不安すぎる打ち手やで、試せやへんのや。どうせ一年きりのつきあいで、そういう大人はみなおらんようになるしさ。家族のおとなはずっとずっと生殺与奪を握っとるのに、助けるてっていう大人はすぐどっか行ってまう。信頼の濃さが足りやへん。
家の秘密がどうなるやしらん、秩序を乱す犯人になったら、あとから家族のもんに何されるやわからん。そんなこととっくに、家族のもんから脅されたり、退路絶たれたり、絶望させられたりで学習ずみになってまっとる。家で受けた間違った学習がよう効いた状態になってまっとる。

相談なんか、ようせやへん。

本たくさん借りに行って、すぐ帰ってきて、どこか自分の身が、つかのま安全なとこで、乱読するんや。それだけや。

未来の誰かが、

……俺、夢で見たことあるんやけど、

身分証取り上げられて、自分のほんとの身元名乗ったら銃殺されるもんで、ただひたすら、人ごみのなかを、ほかの人のかげにかくれて自分に銃弾があたらんように、逃げて、逃げて、逃げまくって、廃屋に入って、ほこりまみれのとこに寝そべって隠れて、そこに本があって、腹減って何も食いもんが調達できんで、本のページ破って、ぱさぱさの、インキと手あかのいやな匂いの本の紙を食って、腹の足しにするんやけど。

せめて、食う前に中身読むんやん。

俺は、そこに書いてある文章を書くんや。

追い詰められた誰かのための、かぼそい未来の足しになるもんを書いて、
読んでもらえる何の保証もない虚空に放り投げて、ただ、誰かのバトンになることを祈るんや。
それしかできんのや」

「うん、……そうなの」

つないでいる手はあたたかかった。

奈々瀬のとても冷静な親譲りの部分は、

「ああ、きっとこの人は、人類の見果てぬ夢にからめとられてしまった蝶になる前の蛹の死骸で、とても蝶には羽化しないだろう。このまま、夢を抱いたまま、社会で役に立ちもせず、資産を形成することもなく、子孫を作ることもなく、若くして詰んで死ぬのだろう」

とても冷たいながら、棋譜を読むように、四郎をそう見限っていた。

奈々瀬のとても恋に恋して正気ではいられない部分は、

この人がそうするならそれに殉ずる。

たとえていえば、木曽義仲に最後までついていこうとする巴御前のように、烏帽子直垂に甲冑をつけ、長刀を手に馬に乗り、そう叫んでいた。

奈々瀬は目を閉じた。ふいに涙があふれてきた。
女の子はなんでもあげてしまうの。自分の持っているものを、なんでも愛する人にあげたいと思ってしまうの。
四郎がかつて読んだ西原理恵子の本に、書いてあったとおり……

なんでもあげたい本能に逆らって、自分の夢を追わないと、不公平な社会は不公平なままよ。
家庭科の先生がそう言ったっけ。
愛して、差し出して、差し出して、差し出すのは女の本能が学習強化された挙句のことで、男の本能じゃないから、男からはキャリアを支えてはもらえないの。

男に、そこを期待するのはやめなさい。
もらい慣れている男は、平等に差し出しあうことなんて、思いもつかないんだから。

本能のしくみに忠実すぎてもそれでよしとされている男の本能は、衝動に任せて勢いで何かをやっちゃって、気分が冷めたら、ふらっと別のことに夢中になりにいっちゃう、それだけよ。

相手を傷つけない自分の権利の守り方を、モノの言い方も、行動の仕方も、知識を得て、練習しなさいね。

~~と。


それは、どこかおかしいです。と奈々瀬は、とうとうとあふれる涙の裏側で、家庭科の先生に、心の中で語りかけていた。
男が本能に忠実でよしとされていて、女は訓練や練習を前提にされているというのは、それは、どこかおかしいです。両方ともが学校で習わなかったことでトラブルを起こして、結果起こる不利益が一方にだけおもくのしかかって、一方にはのしかからずに次のチャレンジができるという不公平が社会で放置されているのは、それは、どこか、おかしいです・・・・・・

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!