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変化聨、その全て。

こんにちは。
先日運営としての振り返りミーティングも終了し、今年の自分的一大イベントであった若者のユースコンソーシアム「変化聨」が無事幕を閉じました。
今回はそんな変化聨に対しての自分の想いや運営としての振り返りを綴ってみたいと思います。


そもそも変化聨とは?

寂しがりボーイの始まり

いろんな人にこのイベントってなにがきっかけで始まったのですか?そんなことを聞かれました。始まりはX(当時のTwitter)です。

ちょうど留学から帰ってきて一ヶ月が過ぎた頃に🇯🇵に帰国してから全く人と会話をしていないことがきっかけでした。この投稿(厳密に言うとこのスレッド内の投稿)に返事をしてきた人が徳島県の出身で、その方とやんわりと次世代コミュニティの形ってなんなのかね、と議論をするなかで生まれたのが変化聨という形でした。

全ての始まり。

まさか当時は僕の不安というか、人と話せていないという孤立感からこんな運営スタッフ含めて70名以上が参加するビッグイベントになるとは全く予想がついておらず、ましてやそのイベントの言い出しっぺになってしまうことも想像がついていませんでした。今振り返ってみると「Twitter(X)、怖えー」という感想以外全く出てきません。当時は何となく、この方(もとから知り合いの方です)とライン上で次世代のコミュニティの形だったりを話して、数回ズームして終わりかなと考えていました。事実を捻って言い換えると、アメリカ留学から帰ってきて孤立をこじらせていた大学生の戯れ言を解消するために夏の徳島、もっといえば交通費も宿泊費も高騰している阿波おどり、お盆の期間に来てくれたのですから。頭が狂っている以外の参加者の形容の仕方が思い付きません。本当にありがとうございます。

名前の由来

名前の由来は…この界隈というべきか、このノートを読んでくれる人には察することが出来る方はいないかもしれないです。これは僕と、僕と同じ部署に入っていた方の二人で決めました。まず、変化聯のイベントの前後で参加してくれた人の中で何か少し、小さなものでもいいから変化を生み出したかった。その気持ちをストレートに伝えようと考えた時に「変化(へんげ)」という言葉を包み隠したり言葉遊びをせずにそのまま含むことがベストだろうと思い、この部分はすんなりと決まりました。しかし、イベント名が「変化(へんげ)」だけだとなんか無味乾燥でサッパリしすぎてしまうので何か加えたい、そういう話になりました。ここで阿波踊りに目を向けてみると、阿波踊りにおけるチームのことを「連」と言います。そして、「連」という言葉には伝わっていく、だとか続いてく、そういった意味が込められています。参加者の中で生まれた変化が参加者の中で元に戻ることなく続いてほしいし、あわよくばその変化が変化聯参加者と関わりのある非参加者にも連なっていってほしい、そんな想いを込めることが出来るのではないかと思いました。それに、語感も良くないですか?「変化聯(へんげれん)」。何かと英語を使いがちな近年にキッチリとした日本語、しかも漢字でグッサリと刺しに行っている感じもなんだかクールで気に入っています。ところで、なんで「連」ではなく「聯」という難しい感じなのか。ここにはちょっとだけ裏話があります。
僕は大学二年生までよさこいをしていて、大好きな演舞の名前に「聯(れん)」という漢字が入っていたのです(大好き、といいながら自分が所属していたよさこいサークルの演舞名なのですが)。そこから持ってきました。オマージュというか、リスペクトです。

変化聯は来年以降の拡大も見据え「変化連」になります!「れん」の字が変わるので以後お見知りおきを!!!

何をしたのか

何をしたのか、についてはこのノートが詳しいです。

自分の言葉でも説明するともはや世界が抱える問題(ビックイシュー)は例え一つの分野のみの問題に見えても異分野の力を借りなければ解決不可能な領域に達しています。だからこそ、自分の興味関心分野の垣根を超えて、若者でコンソーシアムを作ってしまおうそうしよう。という集まりです。
けど、二日間参加していて感じたのは、参加者も、そして運営メンバーですらもその認識で参加している人に限られていないという部分です。本来のイベントであればこれはかなり致命的だとは思いますが、変化聯においてこれはプラスにはたらいたと感じています。そもそも、私たちが創りたいのは企業でも何でもありません。コミット量が多い・少ないによって優劣を付けません。「○○やるんだけど」って声を掛けた時に一緒に取り組む仲間が見つかったり、支え合う風土が創れればそれでいいのです。友達が一人でもできればイベントの存在意義がある、その程度のイベントです。だからこそ、阿波踊り踊るだけのイベントとして参加した人にとってはダルいシーンもあったかもしれませんが、「そういう取り組みをしている同世代が居るんだ」と新しい世界、新しい価値観に触れる機会を提供することが出来たというのはプラスなことだと思います。もしかしたら変化聯がキッカケでビッグイシューにタックルしてくれるようになるかもしれません。僕個人は現在これといって人生をかけて取り組みたいものもなく、起業であったりといったそのような道を選んではいませんが、もし参加してくれた人が何かに挑戦しようとしていて、その際に声が掛かればよろこんで応じたいなと思っています。

阿波踊りのレクチャー

正直、この説明をしても、上に上げたノートを見せてもなかなか共感してもらえません。これは僕の説明不足であったり運営メンバーの努力不足によって引き起こされるものではなく、抽象度の問題だと考えています。大体、ビッグイシュー自体が抽象度高すぎますよね。ビッグイシューのなかに少子高齢化や環境問題などさまざまな問題がぶっこまれていてそれぞれに対して地域や国などで有効な解決策が違う、単一の解決策で解決が出来ない、みたいな。だからこそSDGsも表面上は17のゴールという頑張れば覚えることが出来そうな分量になっているけどふたを開ければそこの中には200を超えるスモールゴールがあってそこできっちりと明文化されて具体化されている。その200のゴールを読むとあぁこういうものかと分かりキッチリと共感できる部分はして否定的になる部分には否定が出来るわけですが、それと同じことを変化聯でやることはナンセンスかな、と思います。そもそも、ビッグイシューという至極具体的ではない言葉を使って呼び込んでいるからこそいろいろな人が集まったわけで、そこにビッグイシューの定義を付けちゃったりすると参加者層はもっと限定的になったと思います。一人一人が描くビッグイシュー像が違ったからこそ多様な参加者が集まったのだと思っています。
それに、阿波踊りに限らず踊りとか抽象度の極みじゃないですか?そんな抽象度の高い場所で具体に特化したイベントをやるとか、みんな具体と抽象を行き来しすぎて溶けてなくなってしまいます。抽象でいいんですよ。抽象で。エビデンスベースとか、コンサルとか、それを至高とする陰謀論者がはびこる世の中で、たまにはそういった眼鏡とかコンタクトをとって曖昧になった世界を生きることこそが人生に歓びを与えると思います。ビッグイシューにタックルし続けただけで人生終えると何も残らないと思いますよ。少なくとも僕はそう思います。教科書に名前を残すよりも、その時近くにいた人、一人でもいいからその人の脳みそにショートするほど電気刺激を流したいです。

そしてその曖昧になった世界を経験した人は言うんです。
「変化聯マジ楽しかった!!!阿波踊り最高!!!」
と。この感覚は参加しない人には決して理解し得ない感情なのです。そしてその人もまた抽象的すぎて具体化できないから、共感してもらえずに困るのです。そして「だったら来い!」と来年共感してもらえなかった人を引き連れてくるのです。そして来年連れてこられた人は…をn回繰り返すのです(n>1)。そう、曖昧とは麻薬のサイクルと一緒なのです。一度始めると抜け出せないのです。曖昧が欲しい…曖昧が欲しい…
となるといいなぁと思っています。

振り返り

運営として

正直な所運営としては不満に感じていたところ、もう少し出来るな、と感じていたところも多々あります。それでも、満足度調査をしてみると98%(自分調べ)で参加して良かったと回答を貰えたので、ここから先は及第点取得済みの試験を満点に近づけるみたいなもので自己満足に近い所なのかもしれません。そもそも、僕個人としては運営メンバー内での振り返りでもたらたらと反省点を述べましたが、一年目だし分からなくて当然だろう、と思っていました。実際、当日になってから至らない部分が見えてきました。それでも、満足度は高かったので大成功の部類だと思います。参加してくれた人で、いや、そうは思わねぇ!不満たらたらって人は来年運営メンバーに回って改善して今年を超えてください。こうすればいいんだぞ、というのを行動を以て伝えてください。心の中で不満を秘めておくだけではないこちらの方が全体利益になります。来年もやるとかやらないとか?
運営は少しばかり具体に寄りますが、具体で疲れた脳で阿波踊りに飛び込んでください。飛ぶぞ。

個人的には就活なんかもあったのでめちゃくちゃ時間が無く、もっとできたな、という気持ちしかないです。マジで。ホントに、できるのにやれない・やらなかったことが多すぎた。マジで。楽しいとか言っておきながら悔しい。そして他の運営メンバーに対して無限の感謝。

阿波おどり参加者として

阿波おどりに参加することは初めてでした。といっても運営の合間に一時間半ほど休憩も兼ねて訪れたくらいなので、阿波おどりの全てを語るなといった感じでしょうが、その一時間半でもものすごい熱量みたいなものを感じました。
靴や着ているシャツが響くほど地から響く太鼓の音と、甲高く鳴り響く鐘の音。となりにいる人とまともに会話もできないほどの音量で奏でられるその二つの音に合わせて踊り狂う踊り子達。そしてじっとしているだけで汗をかく、まともに歩くことも難しいほどの人の量。その人たちもまた各地で踊り狂う。圧倒的なカオスがそこに存在するはずなのに、なぜか心地よい空間がそこには広がっていて、その心地よさも含めての圧倒的なカオスを感じました。
平穏とカオス、絶対に共存しないであろうその二つの概念が共存しているその空間はとても不思議なものに写りました。

カオスと平穏。平穏とカオス。めちゃ曖昧。

来年以降の展望

最高でした。参加してくれた、関わってくれた、興味を持ってくれたあなたたちこそが僕の夏そのものです。来年はどうなるんですかね?やるとかやらないとか、やっぱりやるとか?
ちなみに僕は阿波踊り最高!と声高らかに謳いながらよさこいのお祭りに参加します。

追記:以下のnoteも読んでください。



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