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ニュースを読む意味

お久しぶりです。
かれこれ1か月もnoteを更新しないまま月日が流れ、7月も末に入ろうとしています。つい先日まで今年も残り半分か~なんてことを思っていたのに8月に入ると今年も残り4か月か~と感じることがおおいなぁと毎年思っています。無為に生きると歳月はあっという間に過ぎ去ってしまうものであり儚いものだと思ったり、せっかく与えられた時間なのだから有意義に使わないと勿体ないと思うと同時に、時には無為に生きることも自分の体や心を休ませることに必要だとも思います。無為に生きる時間が人間的な深みをもたらしてくれるとすら思います。人生のバランスというものは難しいな、と思う日々です。

さて、僕はニュースが好きです。言い換えれば、知識が好きです。一方、若者はニュースを読まない、世間を知らないと言われることもあります。
自己分析チックなことも兼ねて、なんで僕はニュースを読むのか考えてみたいと思います。

なぜニュースを読むのか

最初になぜニュースを読むのか、について考えてみたいと思います。僕は平均すると恐らく一日あたり40~50本ほどの記事を読んでいます。中には記事の見出しだけで済ませてしまうこともありますが、このくらいのニュースを読んでいます。しかし、ニュースで取り入れた知識を競うニュース検定なるものがあるわけでもなく、ニュースをたくさん読んでいるから頭が良いだとか、博識であると言うことにイコール(=)で一直線に結ばれるわけではないとも思います。すなわち、ニュースを読むことによって得られる目に見える形でのメリットは少ないように思えます。

ではなぜ?

エヴァンゲリオンに登場する碇ゲンドウが自分の考えに近いことを言っていたので紹介します。

一方的に得るだけの知識は私の心の飢えを満たしてくれた。知識に気遣いは不要だ。時間のある限り私の中に好きなだけ与えることができたからだ

碇ゲンドウ シン・エヴァンゲリオン劇場版より

僕の考えに限りなく近いことを端的に言い表してくれている言葉だな、と思います。
知識は確かに僕の心の飢えを満たしてくれます。それはもっと厳密にいえば好奇心であったり、探求心といった言葉で説明のつく類の感情だと思います。
そして、知識には対人関係とは異なり気遣いは不要です。求めたいとき、求めたい内容がある場合はなりふり構わず突き詰めることができます。求めたくない時、求めたい内容が無い時は逆に一切の関りを絶つことが可能です。そこに断りや話し合い、すり合わせは不要です。知識に対しては常に自己中心的にふるまうことが出来ます。
時間のある限り、好きな分量・内容で与えることが出来ます。これほど都合の良い存在は世の中にはなかなか無いかもしれません。

ふむ、碇ゲンドウ、僕が言いたいことを言い表してくれている。感心せざるを得ません。
しかし、そこにもう一エッセンス自分なりの考えを付け加えるならば、それらをまとめたような形にはなりますが、「知識は自由」と言うことです。先にも少し触れましたが、ニュースによって得た知識は誰の目にも触れることは無く自分だけのものであり、評価されることはありません。一種の自由のようなものがそこに存在しています。ニュースで知識を得ることは自由な行為なのです。政治が好きならば政治のニュースを浴びるように読めばいいですし、経済が好きならば経済、エンタメが好きならばエンタメ。誰もそれに対して何も言いませんし、政治系のニュースを読んでいるから偉い、エンタメ系のニュースばかり読んでいるから偉くない、なんてこともありません。

これは、同じように相手が人ではない勉強、ゲーム(ここでは分かりやすくオフラインでプレイするゲームだとします)とはまた少し違った経験になると思います。勉強は言わずもがな、試験などの形によって評価されてしまいますし、ゲームであれば、さして気が向かない形でのクエストやミッションをクリアのために行わなければいけないこともあります。前者の勉強は自由が無く、後者のゲームは少しばかりクリアのためにやりたくないことをするという気遣いをしなければなりません。
では、読書とニュースを読むということはどのように違うのでしょうか?僕にとってニュースを読むことと読書は同一なように思えて微妙に違う行為のように思います。読書は基本的に一つのトピックに対して筆者が考えをまとめたりしたいわば「加工済み」の知識に対して、ニュースは現在進行形で世界で起こっていることを伝える「ありのまま」の知識であるように思えます。しかし、どちらも知識です。知識は自由です。どちらを取るかも自分次第です。

自己中心的にふるまうことができて、心の飢えを満たしてくれる。
これが僕がニュースを読む理由なのかもしれません。

ニュースは何を与えてくれるのか

ニュースは知識を与えてくれるのみならず、その知識どうしを繋げてくれるように思えます。そして、繋げてくれた内容から自分なりにニュースを分析し思考するチャンスを与えてくれるように思います。

「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。
お爺さんのたった一つの財産である馬が逃げてしまったが、お爺さんはいいことの前触れかもしれないと言いました。
逃げてしまった馬が、名馬を連れ帰ってきた時は、お爺さんは良くないことの前触れかもしれないと言いました。
お爺さん息子がその名馬から落馬し、骨折してしまった時は、良いことがあるかもと言いました。
そうしている内に、戦争が起き、骨折している息子は徴兵されず、お爺さんと暮らすことができました。
こんなストーリーです。
この故事成語にはたくさんの解釈がありますが、一つ一つの出来事がいつしか一つに繋がっていくよ、ということだと思います。この言葉をスティーブ・ジョブズの言葉に置き換えると"connecting the dots"になるのだと思います。もっと最近の言葉で言うとセレンディピティであったり計画的偶発性といった言葉になるのだと思います。

ニュースでも同じことが起きます。関係のないように見える2つのニュースが関係していることがあります。僕はクルマが好きなのでクルマに関するニュースを読むことがとても多いです。最近のクルマのニュースは新車情報のみならず、環境や半導体不足、それに関連して政治や経済分野についてのニュースがクルマのニュースを取り囲んでいるように感じます。だからこそ、政治分野のニュースを読んでいた時に突然、「あ!あのニュースで言っていたことってこれが関係していたからか!」とニュースとニュースと言う2つの点が繋がります。

例えば、

  • ロシアがウクライナに侵攻した。この侵攻は長期化するかもしれない。

  • フォルクスワーゲングループのレーシングカーの生産に遅れが発生している。なぜならばフォルクスワーゲングループのレーシングカーのシートベルトの6割がウクライナ製だからだ。

こういった2つのニュースが脳内で繋がったことがありました。
この感覚がどれほど気持ちの良いことか!片方のニュースを読んでいるだけでは決して繋がることのないニュースが一つになりました。その2つの知識を結びつけたりして自分なりの感想を持ってみたり、分析をしてみたりすることも楽しかったりします。
こうしてニュースは僕に知識のみならず快感を与えてくれることもあります。さすがにこの快感を味わってしまうと、ニュースは評価されない、なんてことを言っておきながら人に披露したい気持ちに駆られます。

ニュースを読み続けて思うこと

僕は真面目にニュースを読むようになったのは大学二年生のころです。ふとTwitterで流れてきたツイートの中身が気になってそれを配信していたニュースアプリをインストールしたことが全ての始まりです。考えてみればそれも一つの点でしかありません。しかし、タイムラインに流れてきたたった一つのツイートが僕の心の飢えを満たし、普段の生活では決して知ることのできなかった世界へと連れていってくれました。
知識は世界を広げます。知識は世界の見え方を変えます。
これが僕の、現時点での結論です。

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