モモ

わたしがほしい「時間」ってなんだろう/モモ

過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては。どちらでも大きなちがいはありません。

『モモ』(ミヒャエル・エンデ:岩波書店)の「みじかいあとがき」に書かれたこの部分を読んだときが、いちばんぞくりとしてしまう。今回も、それから確か前に読んだときも。

初めてこの本に出合ったのはいつの頃だったかな、と思い返す。

たぶんそれは小学生のときで、今よりもっと活字に飢えていたころで、今よりもっと「時間があった」ときのころ。

「時間がない」だなんていつから思うようになったんだろう。「ない」と思うのは「必要」だと思っているからでしょう。じゃあ一体なんの時間をわたしは「必要」だと思っているんだろう。

大きな丸を書いて、そこに24時間に見立てて自分の理想とする1日のスケジュールを書くというのをもう何年も前からやっている気がする。

会社員だったときは平日と休日の2パターン、今はお休みなんてあってないようなものだから1パターン。気分や、時期によっても変わってくるけど、だいたい「食事」「仕事」「睡眠」といった“なくてはならないもの”の隙間に押し込まれるように入ってくる「お散歩」「ゆるりと過ごす」「なんにも考えない」。

わざわざ書き出さないと出てこない項目。書いてみて初めて気付く、ほしいと思ってる「時間」はたぶんこれ。

この時間はきっと生きるためとか生産性とか言うところから見たら必要ないもの。将来的にも何か意味のあるものになるかはわからないし、結局ただの時間潰しなるかもしれない。

だけど何にもならなくても、それを求めているのなら、わたしにとってはきっと意味のある必要なものなんだろうなと思う。

最近少なくとも週に2回は湯船に浸かるようになった。身体を洗うだけならシャワーだけでも充分だし時間の節約にもなるのだけど、それをやめたのはなんにもしない時間がほしかったから。

家でぼーっとしようと思っても気がついたら携帯をのぞいてしまう。PCを開いてしまう。ほしいものもそうでないものも何でもかんでも溢れてくるこの機械のおかげで生きているけど、きっとほんとはすきじゃない。

お風呂場にはお水とメモとペンだけ持ち込んで、何にもせずに過ごす。思いついたことがあれば、思いついた順にじゃんじゃん書き出す。「物欲リスト」「将来なりたいもの」「かっこいいお家の間取り」「行きたいところ」「カフェで見かけたかわいい人の横顔」。書くのに疲れたらまたぼーっとする。

正確には「なんにもしない時間」ではないかもしれないけど、すぐにSNSを通じて他人の時間を覗き見てしまう習慣がついてしまった今は、ここから始めてもいいかなと思っている。自分としか過ごさない時間ってけっこう、ほんとに貴重だ。

光を見るために目があり、音を聞くために耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心がその時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。

誰かに盗まれて、なくしてしまってから初めて時間の大切さに気がつくなんてそんなのさみしすぎる。”今”をいちばんすきでありたいのに。時間どろぼうもマイスター・ホラもモモも自分の中にみんないるのだと思う。

「時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」

長すぎるサブタイトルのこの物語は読むたびに、自分にとっての大切な時間を思い出させてくれる気がする。




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