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外国人に伝える日本の歴史あれこれ -原始前編-

こんにちは!全国通訳案内士のリサです。

京都を拠点に関西地方で外国から訪れる観光客のプライベートツアーガイドをしています。

今日は外国からのゲストに聞かれることの多い「日本の歴史」について、普段どのように説明しているのかお話しします。

まず初めに日本の原始について。

え、原始から??とお思いでしょうか。
もっとサムライとか出てこないと日本の歴史って感じがしない〜とお思いですか?
でも、
「私たちの祖先はどこから来たのか」
「いつから日本にヒトがいるのか」
「その証拠ってあるのか?」
なんて考えてみたら、面白いと思いませんか。

私がツアーを提供する外国人ゲストの多くはアメリカ合衆国出身で、ネイティブアメリカンでない限り、自分の国のルーツを数百年前までしか遡ることができません。
私たち日本人は、その何倍もの時間を今踏みしめている地面の下に重ねてきました。
そして文字どおり、地面を掘り起こせば、何千年、何万年前に人々が生きた証拠を見つけることができます
そう考えると、原始についての説明は日本の歴史の一番面白いところと言っても過言ではありません。
日本の成り立ちについて、どのように説明できるでしょうか。?
早速始めましょう!

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日本列島にヒトがきたのはいつ?

歴史をどこまで遡って説明しようとするのか、悩ましいですね。
ここでは、現在の日本列島にヒトが暮らし始めた頃まで遡って説明してみましょう。
どのくらい前だと思いますか?

地球上に人類が現れたのは数百万年前だそうですが、この頃まだ日本列島にはヒトはいませんでした。
地球全体が今よりずっと寒かった氷河期と呼ばれる時代、海水面が今より100mも低かったため、大陸と日本列島は地続きで、大陸からやってきたマンモスやナウマンゾウなど大型動物が現在の日本に生息していたそうです。
この大型動物たちを追いかけて約3万5000年前に人類が日本へやってきたと考えられています。

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日本列島にヒトがいた証拠

この頃、人々は木の棒の先に尖ったナイフをつけて大型動物たちを仕止める道具にしていました。
ナイフと言っても、ステンレスや鉄はまだありません。
人々は石を削って尖らせてナイフのような形に加工していました
この削った石のことを、打製石器(だせいせっき)と言います。
打製石器が発掘された地層の年代から、ヒトがいた年代を特定することができるのです
この石器こそヒトがこの土地で生きていた証拠です。
この後わたしたちはより良い素材を求めて銅や鉄を使いますが、それはもう少し後の話。
一番はじめに使われた素材は石だったのです。

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日本で見つかっている一番古い打製石器は約3万5000年ほど前のものです。
実際に東京国立博物館や、群馬県の岩宿博物館などで見ることができます。

3万5000年と言われても、あまりピンときませんよね。
江戸時代が終わったのは150年ほど前。
京都に都ができたのは1200年ほど前。
イエス・キリストが十字架にかけられたとされるのが2000年ほど前。
さらに古いメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明など、いずれも今から4000年前から8000年ほど前までのもの。
そう考えると、3万5000年というのは歴史書では遡ることができないほど、途方も無い昔のことです。
3万年5000年の時を超え、風化せずに残ることができたヒトの記録。それが石器なのです。

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ところで石器は英語でstone tool(ストーンツール)と言います。
stone (石)とtool(道具)。
そのままですね。
この石、そこここに落ちているどんな石でもいいのかというと、そういうわけではありません。
大型動物を仕留めるために、鋭いナイフのように加工する必要があり、それにちょうどいい石というのがあります。
それは黒曜石(こくようせき)と呼ばれる石です。
その名の通り黒い石です。

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黒曜石は英語ではobsidian (オブシディアン)と言いますが、日本語で黒曜石と言ってもパッと思い浮かばないのと同様、外国人ゲストにobsidian と言ってもうまく伝わらないことが多いです。
黒曜石は、火山の噴火で地表に流れ出たマグマによってできる岩石で、ガラス質を含み、割れると刃のように鋭くなるのが特徴の石です。

なので黒曜石を英語で説明するときは、
volcanic extrusive rock (マグマの噴火によってできた石で、)
with a glassy texture (ガラスのような質感を持ち)
that makes sharp edges when it fractures (割れると鋭いエッジができるんです)
という説明がいいと思います。
日本に活火山が多かったことから、このような石がたくさん採れたことも併せて説明しています。
特に北海道や長野県で黒曜石がたくさん取れたようです。

日本各地の博物館では黒曜石を様々な形に加工した打製石器(だせいせっき)を見ることができます。
よくあるのは平たいナイフの刃のような形で、英語ではknife blade (ナイフブレイド)と表現することができます。

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誰でも一目見ると、それらの石器が自然形成によるものではなく、ヒトの手によって加工された道具だとわかります。
黒曜石のナイフを見ていると、その鋭い刃先に目が釘付けになります。
それは何万年もの昔、誰かが削り出したもので、紛れもなく彼らの生きた証。そして私たちは時を超えてその証を見ることができるのです。

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氷河期が終わって変わったこと

やがて氷河期が終わり、暖かくなると、多くの変化が訪れます。1万年くらい前だと考えられています。
どんな変化があったかというと、まず気温が上がったことで氷河が溶け、海の水位が上がりました。
すると、日本列島が大陸から切り離されます。
マンモスなど寒冷な気候を好んだ大型動物はしだいに居なくなり、日本列島にはシカやイノシシなどの中型の動物が生息し始めます。
また、温暖な気候になったことで、地上や水中に生き物が増え、木の実や貝類など、食べ物が豊富に取れるようになります

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氷河期が終わって環境が随分変わりましたね。
環境の変化に伴い、人々の生活も変わります。何が変わったと思いますか?
氷河期が終わって変わった生活の一つは、狩りの方法です。
ノソノソ歩くマンモスに比べて、イノシシやシカなどの中型動物は足が速く、今までのように棒の先につけたナイフで追いかけ回すことが非効率になってしまいます。

そこで、弓矢などの飛び道具が発展しました。先ほど登場した黒曜石で、ナイフの代わりに弓矢の矢尻(やじり)を作ります。これで自分の足より速く走る中型動物の狩りをしていました。ちなみに、矢尻は英語でarrowhead(アローヘッド)と表現します。

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他にも氷河期が終わって変わった生活があります。食べ物をお鍋でコトコト煮て食べるようになりました
コトコト煮込むことで硬いお肉や植物を柔らかくしたり、木の実のアクを抜いたりすることができました。

食べ物をコトコト煮込んでいた証拠

さて、この時代のお鍋って、どんなものでできていると思いますか?
土を焼き固めて作られたもので、土器(どき)と呼ばれます。
土は土でも、野菜を育てるようなふっくらとした土ではなく、
田んぼや川に堆積しているような粒が細かく湿り気の多い土、つまり、「ねんど」です!
ねんどは、高温で焼くと固まる性質があり、現代でもレンガ作りや植木鉢作りにはねんどが使われています。
オレンジ色をした素焼(すや)きの植木鉢、見たことありませんか?
土器は現代の素焼きの植木鉢とよく似た方法で作られていたものです。
このような土のお鍋は日本各地から出土(しゅつど)していて、日本列島でヒトが食べ物をコトコト煮込んで生活していた証です。

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土器は英語でpottery (ポタリー)と書かれている場合が多いですが、
potteryでは現代のお茶碗のような「釉薬(ゆうやく)をかけた陶器」をイメージする方も多いと思います。
もう少し具体的に説明するなら、素焼きという意味の terracotta(テラコッタ)を加えてterracotta pottery (テラコッタポタリー)と言ったり、 earthenware(アースンウェア)と言うと、土器の特徴である素焼きのオレンジ色のイメージが浮かびやすいと思います。

日本で一番古い土器は長崎県佐世保市の洞窟から発見され1万3000年ほど前のものだと判明しています。
この土器の表面には煮炊きに使った時のススや、煮こぼれが焦げついた炭などが付着していたそうです。佐世保市博物館島瀬美術センターが所蔵しています。

土器って、誰でも一度は教科書や博物館で見たことがあると思いますが、
地味で目立たない存在だと思われがちですよね。
でも、土器はこの時代の大きな発明だったのだと思います。
水を貯めておいたり、水を持ち運んだり、火にくべて湯を沸かし、食物を柔らかく煮ることができます。生の野菜を温めて殺菌することもできます。
鍋ややかん、水筒など、今の私たちの生活に欠かせない道具たちと通じるものが当時の土器なのです。
そう考えると、ステンレス鍋やペットボトルの破片などが何千年後に現代の地層から発掘され、私たちがこの時代に生きた証となるのかもしれませんね。

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日本人の生活を変えた稲作

日本の歴史上、大きなターニングポイントがいくつかありますが、
最大のターニングポイントがお米を作り始めたことだと思います
その他にも仏教と出会ったことや徳川幕府なども大きな変化をもたらしましたが、稲作の開始に比べると微々たる変化だと思うほど、劇的な変化です。

それまで野生の動物を狩り、木の実や貝を食べて暮らしていた日本人。
お米の栽培は、人々の生活をどのように変えたと思いますか?

ヒントは、「お米は長期保存ができる」ということです!

稲作が日本へ伝わったのは、2500年前、3000年前、それよりも前、など諸説あります。
稲の中に育つガラス質の細胞が、土器の中から見つかり、時代を推定することができるのですが、
稲作がまだなかったと信じられていた時代の土器から稲の細胞が見つかったりして、
実は私たちが考えていたよりずっと前から、日本人はお米を栽培していたのでは?と議論が巻き起こっています。
いずれにしても、稲作は日本以前に中国大陸で栽培が開始され、それが九州に伝わり、日本でも稲作が行われることになりました

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稲作の素晴らしいところは、うまくやると大量に収穫でき、
大量に収穫できると、長期保存ができ、食べ物を探し回る必要がなくなることでした。定住の始まりです。
反対に、稲作の困難なところは、それなりの設備が必要なことでした。
まず、適した土と水が必要です。
水源から水を引く水路を作る必要も出てきます。
すると、木の実や獣を追いかけて移動していた生活から、水田に適した土地に定住し、その土地を改良していくわけです。
このように規模が大きくなってくると、個人やファミリーの単位を超えて、コミュニティで協力する人々が出てきます。
こうして集落(しゅうらく)が始まります

集落の始まりは、戦いの始まりでもあります。
より良い土地や水を求めて、あちらの集落とこちらの集落が戦う、ということがおきます。
そのため、集落の周りには溝を掘り、敵から身を守る防備にしたり、人と戦うための武器が作られるようになるのです。
このような集落には、みんなを率いるリーダーが登場し、やがて集落が大きくなると、そのリーダーが政治的な役割を担うことになります。

稲作が始まり、人々は定住し、協力し、戦い、やがて小さな国ができていくことになります。

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稲作は英語で rice cultivation (ライスカルティベーション)といいます。
外国人ゲストに日本の歴史を伝えるとき、「稲作」に触れるのは特に重要だと思います。
私たちにとって当たり前すぎて焦点を当てるのを忘れてしまいがちなお米ですが、お米が主食ではない国の出身者からすると日本を理解する重要キーワードになります。
日本各地で見られる田んぼの風景や、稲の神様を祀る神社、収穫のお祭り、お米中心の日本食文化やお米を原料として作る餅や酒など、さまざまなことを稲作から語ることができるのです。
外国人ゲストに、あなたの国の主食は何ですか?と聞いてみるのもいいかもしれません。

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いかがでしたか?
日本に初めてヒトがやってきた時代から、稲作によって集落が出来るまでを見てきました。
原始前編のキーワードは石器、土器、そして稲作でした。
後編では石や土に変わる、強力なマテリアルが登場します。
それは何だと思いますか?あなたの身の回りにも使われているかもしれません。

次回をお楽しみに!



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