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外国人に伝える日本の歴史あれこれ-原始後編-

こんにちは!全国通訳案内士のリサです。

京都を拠点に関西地方で外国から訪れる観光客のプライベートツアーガイドをしています。

前編では日本に初めてヒトがやってきた時代から、日本史上最大のターニングポイント(だと私が思う)の稲作が始まり、集落や小国が出来ていくところまでをお話ししました。
まだ読んでいないという方は、ぜひ前編も読んでみてください

もしかして、もう原始はいいから、さっさと奈良時代の話に入ってくれ!なんて思っていませんか?
今回もまだ原始のお話が続きます。
なにせ3万年分もあるので、話すことが盛りだくさんなのです。本当は前後編でも足りないくらいなのですが、なんとか原始は今回で最後にします(多分)。
稲作が始まり、人々の暮らしがどのように変わったのか、もう少し具体的に見ていきたいと思います。ぜひお付き合いください!

お米栽培と日本人のお家

お米の栽培が始まり、日本人が集団で暮らすようになった痕跡は、日本各地で発見されています。

例えば大阪府の南部「池上曽根遺跡」には2000年ほど前に人々が暮らしていた集落の痕跡があります。
集落の痕跡には、どんなものが見つかったと思いますか?
まず、集落を取り囲む大きな溝が見つかっています。集落遺跡を囲むこのような大きな溝は、生活用水を引くための水路として使われたり、深く掘って敵から身を守るためのバリケードとして使われていたと考えられています。

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このような大きな溝に囲まれ、人々が暮らした30棟以上の「お家」の跡も見つかりました。日本で初めて作られたお家は円形のものがほとんどです。(しだいに四角いお家に住むようになります。)

地面を円形に数センチ掘り下げ、柱を4本か6本くらい立てます。その上にさらに横向きの部材を乗せて、屋根を被せていました。
地面を縦に掘り下げるので、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれています。
このようなお家は、柱や屋根が2000年の時を超えて残っていることはほとんどなく、地面を円形に掘り下げた跡や、柱の跡が見つかります。

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英語では、地面を掘って作る住居のことをpit-house(ピットハウス)またはpit-dwelling (ピットデュエリング)と言います。竪穴住居は、 A thatched house (かやぶき屋根の住居で、) that was partially built into the ground (部分的に地下を掘り下げて立ち、)
and usually circular . (通常円形をしています。)と説明してもいいと思います。

住居跡に囲まれて、巨大な建築の跡と井戸も発見されました。
広さ約80畳もの大きな空間と屋根、それを支える26本の柱の跡です。26の柱のうち、17本は実物のヒノキ材が発掘調査の際に残っていたそうです。
この巨大建築は住居ではなく、集会をしたり、宗教的な儀式を行っていたのではないかと考えられています。

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この他に、集落の遺跡からは床を地面から1メートル以上も高くして作るお米の貯蔵庫「高床倉庫(たかゆかそうこ)」の遺跡が見つかることも多いです。
この倉庫は、大切なお米を湿気から守るため、床を高くして通気性を確保したり、害虫やネズミから守るために、ネズミ返しがついています

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「池上曽根遺跡」のすばらしいところは、遺跡の発見された場所にレプリカが建設されていて、当時の様子を再現しているところです。博物館も近くにあります。

このような大規模な集落の遺跡は日本各地にあり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)や、静岡県の登呂遺跡(とろいせき)などは復元模型や展示資料と一緒に楽しめるのでおすすめです。

農業を効率化したハイスペ素材

集落の風景がなんとなく見えてきましたね。
ここでもうひとつ、稲作開始と同様にこの時代の人々の生活を変えた革命をご紹介します。
それは、今まで日本列島では使われてこなかった「ハイスペック素材」です。
前編では、石器を使ったナイフや弓矢、粘土を使った土器などを紹介しました。
これよりもスペックの高い素材ってなんだと思いますか?

それは、です!

鉄の道具や武器は、破壊力があり、強度があり、耐久性もありました。それまで使っていた石の農具に比べて、効率の良い金属である鉄が普及し、農業が効率的に行われるようになります
するとお米がたくさん収穫できるので、暮らしが豊かになり、人口も増えていきました。
今まで石を使っていた武器も、より頑丈な鉄で増強することができ、軍事設備を整えることができるようになりました。

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鉄は稲作と同様、大陸から九州を通してだんだん日本全国へ伝わりました。
鉄を作るためには、鉄鉱石(てっこうせき)や砂鉄(さてつ)などの原料が必要で、それを溶かして加工し、武器や農具になります
鉄を作ることは現代の社会でもとても重要な産業ですが、
日本人が国内で鉄製品を本格的に生産し始めたのは6世紀頃からです。
それより以前、原料も作り方も知られていなかった2000年以上前の稲作開始時代は鉄製品や鉄の原料を朝鮮半島から輸入していたと考えられています。

鉄の道具のことをiron implemet (アイアンインプリメント)と言います。 鉄鉱石と砂鉄はそれぞれ英語で iron ore (アイアンオー)、iron sand (アイアンサンド)と言います。

日本は石の次に鉄を使った珍しい国

石の次に鉄が使われたことを伝えると、外国人ゲストの中にはびっくりされる方もいるかもしれません。
なぜかと言うと、世界的には石を使っていた時代の後、青銅器を使っていた時代がしばらくあり、その後、よりスペックの高い鉄が使われる時代がやってきます。
それぞれ英語ではstone age (ストーンエイジ)、 bronze age(ブロンズエイジ)、 iron age(アイアンエイジ) と呼ばれていて、青銅器の時代から鉄の発明まで何千年もかかったのです。
日本はどうして石の時代の後、青銅器を飛ばして、鉄を使い始めたのでしょうか?

理由は簡単です。
日本は青銅器の存在を知らないまま何千年もずっと石を使っていたので、世界の人々が青銅器を発明して更に鉄を発明した後で、両方の存在を知りました。

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収穫のお祭りに使われた青銅器

青銅器と鉄をほぼ同時に知ることになった日本。
農具や武器など実用的な道具には鉄を使用したので、鉄がどんどん普及しました。
青銅器はピカピカして美しいので、実用的な道具ではなく装飾品や儀式の道具として利用されます

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兵庫県神戸市から青銅でできた「銅鐸(どうたく)」が大量に発見されました。
鐘のような形をしていて、お祭りや儀式の時に打ち鳴らして使っていたのだと考えられています。上の写真を見て、「あれ?全然ピカピカしてない!」と思うかもしれません。青銅はサビると青緑色になってしまうのです。もともとは金色に光り輝いていて、見た人のことを魅了したはずです。

これらの銅鐸(どうたく)の表面には杵(きね)と臼(うす)で稲の脱穀(だっこく)をする人々や、田んぼの害虫を食べてくれるトンボなどが描かれています。
神戸市立博物館で見ることができます。
また東京国立博物館が所蔵している「銅鐸(どうたく)」にも、脱穀する人々やトンボの他、お米を貯蔵する高床倉庫(たかゆかそうこ)の絵が描かれています。
このようにお米に関するモチーフが描かれていることから、青銅器は「収穫のお祭り」の時に使われていたのではないかと考えられています。


「青銅」は英語でbronze(ブロンズ)と言います。
青銅は「銅」に「スズ」を少し混ぜて作る「合金(ごうきん)、alloy(アロイ)」です。
なぜ銅だけで作らないのかというと、銅だけでは柔らかすぎてすぐ欠けてしまうので、スズを混ぜて硬くするのだそうです。この他に銅に亜鉛を混ぜて作られる金属で「真鍮(しんちゅう」がありbrass (ブラス)と言います。外国人ゲストに日本の文化を紹介する時、これは何の素材でできているのですか?と聞かれることは多いです。例えば仏像の説明や新幹線の説明をしている時に、素材は何でできているのですか?という風に聞かれます。身近なモノが何からできているかを普段から気にしてみると、面白いかもしれません。

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日本についての三つの記録

ここまで日本の歴史を石器や土器などの出土品や住居跡などの史跡から見てきました。
でも、この頃の集落の名前や、リーダーの名前などを知るもっと有力な情報源はないのでしょうか?

実は稲作が伝わった時代、日本にはまだ「文字」がありませんでした
メソポタミア文明のくさび形文字、エジプトのヒエログリフ、そして中国の漢字など、文字はすでに世界中で使われていましたが、日本にはなかったのです。
そのため、日本公式の書類や歴史書も存在しません。
ただし、すでに漢字が発明されていた中国の歴史書の中に、日本の記述を見ることができます。ここでは中国の3つの歴史書の記述をご紹介します。

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− (1)日本についての最初の記述

ひとつ目は今より2100年ほど前の中国の歴史書に日本についての記述があります。

「朝鮮半島の方の海のかなたに、倭人(わじん)がいる。100あまりの小国に分かれていて、定期的に貢物(みつぎもの)を持って挨拶に来る。」

日本についての紀元前の記録は世界中にこれだけしかありません。短い…

地理について書かれたものすごく長い文章の中、二行だけの短い記述です。

日本はこの頃、中国の歴史書で「倭(わ)」と呼ばれていて、そこに住む日本人は「倭人(わじん)」と呼ばれていました。

定期的に中国に貢物を持って挨拶に行っていた、ということは、中国と日本の間には大きな力の差があったことが伺えます。

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− (2.1) 奴国 (なこく)の記述

ふたつ目。少しあとになって、中国の歴史書にまた日本についての記述が見られます。

「西暦57年、倭奴国が貢物を持って挨拶に来た。使いの者は大夫と名乗った。倭奴国は倭国の最南端にある。皇帝は、印と綬を授けた。」

今度の記述はもう少し具体的ですね。倭奴国(わなこく)というのは、倭(わ)と呼ばれていた日本の中にたくさんあった小国のうちの一つ、奴国(なこく)のことを指していて、その国の使者が貢物を持ってきたということです。

倭国(=日本)の最南端にあったのですから、現在の九州の辺りに奴国があっことが予想できます。

その国から挨拶に来た日本人に、中国の皇帝が「印と綬 (いんとじゅ)」を授けたというのですが、これは何なのでしょうか?

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− (2.2) 中国からもらった「印と綬」って何?

印というのは、「印鑑(いんかん)」の事で、綬はそれを吊り下げる「紐(ひも)」です。

誰でも持っていたわけではなく、中国の王朝で働いている役人が持っていて、金銀銅などがあり、地位が高ければ高いほど、良い材質の印鑑を持つことができました

印鑑は綬 (じゅ)と呼ばれる紐(ひも)にくくり付けて身につけるのですが、この紐の色も地位によって分けられていたので、その色からどのレベルの印鑑を持っている人なのかわかるようになっていました。

現代では、印鑑は紙に押すものですが、当時は木の札に書かれた公文書に封をする際、紐でくくって粘土(ねんど)で閉じた後、その粘土(ねんど)に印を押し付けて封をし、途中で開封されないようにしていたようです。ヨーロッパのシーリングワックスの使い方に近いですね。

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中国の王朝に仕える役人だけが持っているこの「印と綬」を日本の奴国(なこく)が授かったということからもまた、当時の力関係は「中国>奴国(なこく)」だったことがわかります。
逆に考えると、「印と綬」を授かった奴国(なこく)は中国という強力な後ろ盾を得たことになります。
中国の皇帝から「印と綬」を授かって帰国したのですから、日本国内のその他の国々から一目置かれたかもしれません。

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さて、この「印と綬」を日本の奴国(なこく)が受け取ったのは西暦57年ですが、この印が江戸時代に九州の志賀島で発掘されました。

素材は金で、四角い形をしています。この印鑑とされるものが福岡市博物館で見ることができます。金で出来ているので「金印」と呼ばれています。

金印には「漢委奴国王」と記されています。

一番左から、漢(=当時の中国の王朝名)委(=日本)奴(=奴国のこと)なので、中国王朝に仕える、日本の中の、奴国の王様、という意味になります。

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この金印、歴史書の時代から発見まで1700年も経過しているので、本当に本物かどうか?という議論があるのですが、まだ解明されていません。本物だったならまだ日本が文字で歴史を記せなかった時代に確かに日本が存在していたという証になります。

金印は「the golden seal(ザ・ゴールデンシール)」と訳されることが多いです。
seal(シール)には印鑑とか、捺印する、という意味があります。公式の英訳とは少し離れますが、欧米の方には「sealing wax(シーリングワックス)のようなもの」と伝えると、イメージが湧きやすいと思います。
この時、円形のものを想像する方が多いのですが、金印は四角いことを強調して、squared sealing wax made of gold と言うと、四角く、金でできていることが伝わります。

− (3) 連合国の女王「卑弥呼」の記述

話を3つの歴史書に戻します。3つ目の記述です。

日本が中国から前述の金印を授かったとされるのが57年。
それより200年ほど後の記録に次のようなものがあります。
今度は長いので省略しています。

「倭は朝鮮半島の向こうにある山がちな国。昔は100余の国だったが今は30程の国に分かれている。... 邪馬台国...では卑弥呼という女王が占いやまじないを使って政治をしていた。... 西暦239年、倭の女王が中国に遣いを送ってきて、中国の皇帝は卑弥呼のことを「親魏倭王」として金印を授けた。... 銅の鏡も授けた。... 」

卑弥呼と呼ばれる女王が権力を持っていて、先ほどとは別の金印を授けたことが記されています。こちらの金印はまだ見つかっていません

100あまりあった国が30になったということは、小さな国が大きな国に滅ぼされたり吸収されたりして統一が進んだのかも知れません。日本はこのように30程の小さな国が集まった連合国で、それらをまとめていたのが、卑弥呼 (ひみこ) が率いた邪馬台国 (やまたいこく)でした。

この邪馬台国の史跡が残っていれば、ぜひ歴史ツアーで巡りたいのですが、現在のところ邪馬台国がどこにあったのかは不明です。「ここにあったかも知れない」というのは全国にたくさんあります。どこにあったか不明なところが、日本の歴史のミステリアスな部分です。
もし今後、この金印がどこかの地層から発見されれば、それが決め手となって邪馬台国の場所がわかるかもしれません。

ところで日本の歴史を語る上では圧倒的に男性権力者が多いですが、卑弥呼は数少ない女性権力者の1人です。

この後、8世紀までは女性の天皇がたびたびいた時代もありますが、その後江戸時代を最後にいなくなり、戦後は女性が天皇になれない法律ができました。このほか国会議員の女性の割合も1割程度で、この割合は世界191カ国中165位と先進国最下位です。
外国人ゲストには卑弥呼が女性だったことを伝えて、男性が政治の中心になってきた日本社会と対比的に説明しても面白いと思います。

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いかがでしたか?
まだ日本には公式文書が存在しない時代のことを、石器や土器・金属器などの出土品や、中国の歴史書や金印などから説明しました。
日本はまだ、小さな国が集まった連合国として存在しています。
この後、どのように一つの国になっていったのでしょうか

次回をお楽しみに!

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