【短編小説】 夢で待つ君へ

僕は毎晩布団に潜り、胸を踊らせながら目を閉じる。
窮屈な現実世界から逃れるうちに、"これは夢の中だ"と自覚する夢、いわゆる明晰夢を見ることが得意になっていた。
空を自由に飛び回ったり、魔王から世界を救ったりするような夢ではなく、野球部に入って甲子園を目指したり、昔の友達と旅行に行ったりと現実に近い夢が多かったけどまた別の自分になれた気がして楽しかった。
そんなリアルシミュレーションゲームのような夢の中が、僕の唯一主役でいられる場所だったかもしれない。

夏休み明けのテストが散々な結果だった今日みたいな日も夢が全て癒してくれる。

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「初めまして。私は夏海。よろしく」

その言葉が隣に座る美少女から発せられたものだと気付き、これが夢であるとすぐに理解した。
彼女は丸い瞳で僕をじっと見つめている。

「あ、あぁ…えっと。僕は良樹。よろしく」

慌てて答える僕を見て彼女は優しく笑窪を作った。
肩まで伸びた艶やかな黒い髪と夏空に浮かぶ雲のような白い肌とのコントラストが美しかった。

周りを見渡すと、見覚えのない教室に見覚えのないクラスメイトたち。1人1人の控えめな話し声が1つの大きなざわめきとなって教室に響いていた。
現実と勘違いしてしまうほどリアリティのある夢だった。

「良樹君さ、去年隣のクラスだったでしょ。喋ったのはこれが初めてだよね」
「あぁ…そうだったね。確か」

設定がよくわからない僕は当たり障りのない返事しかできなかった。しかしこの会話から察するにおそらく高校2年か3年の始業式の直後だろう。
突然夢の中の世界に放り込まれる僕は探偵のようにこうして手掛かりを集めて自分の置かれた環境を理解するしかなかった。
学校のチャイムがなり教室中の生徒が一斉に席に着いた。耳に響くチャイムの音が段々と遠くなっていく。

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目が覚めると見慣れた天井と聞きなれた携帯のアラームが飛び込んできた。
現実の朝は憂鬱だ。朝が憂鬱を連れてくるのか、憂鬱が朝を連れてくるのか。
多分どっちでもない。朝と憂鬱は肩を組んで足並み揃えてやってくる。

リビングに降り、いつものように寝ぼけ眼でバナナを頬張る。慌ただしく駆け回る母親。人が死んだニュースを淡々と読み上げるアナウンサー。
変わりばえのない現実だ。

家に帰ってもなお、夢で見た彼女のことばかり考えていた。
夢に出てきた異性をやけに意識してしまうあの感覚と同じだろうか。いや、それよりももっと強く。何か彼女に手繰り寄せられるように妙に惹かれた。

昨日の夢の事ばかり考えていた1日が終わり、寝床に入る。
今日も会えるだろうか。僕は強く願いながら現実世界に身体を置き去りにした。

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「ほら早く!」

気が付くとそこは喧騒が溢れる街の中で、2歩先にこちらを見て手招きする彼女の姿があった。
僕の心を縛っていた不安がほどけ、胸を撫で下ろした。
彼女と肩を並べ歩き始める。
雲の切れ間からまばゆい日差しが街に降り注ぎ、夏らしい陽気に包まれていた。
僕たち2人は制服姿だった。昨日は気付かなかったけど、この淡い水色のYシャツは北宮高校のものだ。中学3年の頃学校説明会に行ったこともあったからすぐにわかった。

今日の夢は彼女とのデートということだろうか。僕はほぼ初対面の女の子といきなりデートに行くその状況に思わず苦笑してしまった。
同時に、お金と労力を掛けることなくこんな体験ができる自分の能力が少し怖くも思う。

横断歩道の前で赤く点灯した信号を見つめる僕に彼女が問いかけた。

「実は今日まだ行き先決めてないんだけどさ、映画館かプラネタリウムだったらどっちがいい?」

「え、じゃあ…。プラネタリウム」

「おっけー。じゃあ向こうだね」

不意に質問されたからあまり考えずに答えてしまったけど、夢なんだからちょっと攻めたプラネタリウムを選んで正解だろう。


人混みの中をすいすいと進む彼女に付いて行き、辿り着いたプラネタリウムは確か幼い頃母親と来た覚えがある。もう何年も前のことだからほとんどうろ覚えだけど。

「うん、初デートにプラネタリウムっていいね」

そうか、これは初デートなのか。僕たちは既に付き合っているのだろうか。
どっちにしても彼女の口から"初デート"と出るくらいだから良好な関係なのは間違いない。

チケット売り場を探していると彼女がいち早く見つけ、駆け出していってしまった。
彼女はあっという間にチケットを購入して僕に1枚差し出した。

「はい、これ」

こういうのは男が普通買うものだと情けななく思いつつ、"ありがとう"と伝えると彼女は笑みをこぼした。
昨日と変わらず彼女は綺麗で、そのあまりにまっすぐな瞳は思わず視線を逸らしてしまうほどだ。

指定された席に着くと程なくして上映が始まった。
先ほどまで味気なかった頭上に満天の星が映し出され、まるで自分も宇宙の中の1つの星になったようだった。
沢山の星に囲まれてはいるけど、どれも手の届く距離にはなくて果てのないような孤独を感じた。

ミザール、レグルス、スピカ、聞いたことのない名前の星ばかりだった。

「都心部からだとなかなか肉眼で確認することはできませんが、東京の空にもこんなにも沢山の星が輝いているのです」

そうだ。僕が知らなかっただけで星たちは変わらずずっとそこに存在していたんだ。
ただ知る機会がなかっただけで。

それから沢山のことを知った。
今僕たちが見ている星の光は何年も前の光だということ。
星は最後爆発を起こして死んでしまうこと。
太陽はあと50億年したらなくなってしまうこと。
どれもあまりに規模が大きすぎて考えれば考えるほど僕の存在がちっぽけに感じてくる。
専門的なことはわからないけど僕たちは今、たまたま生きられているだけなんだと思った。

上映が終わり、しばらく余韻に浸ったあと隣の彼女と顔を合わせた。
彼女は満足げな顔で"いこっか"と言って白い歯をこぼした。

彼女は宇宙の世界があまりに壮大すぎて感じたことを自分の持ち合わせた言葉だけじゃ上手く説明できない様子だったけど、僕も同じだった。
何にしても楽しんでいたようでよかった。

外に出ると暗がりに慣れていた目を刺すような日差しが飛び込んだ。
僕たちはプラネタリウムから歩いて5分ほどの、彼女が気になっていたというカフェに寄ることにした。
明るい内装の店内に若い女の子たちの笑い声が飛び交っている。きっと隣の彼女がいなかったら僕が来ることはなかったと思う。

程なくして注文した飲み物が運ばれてきた。
パフェを入れるようなグラスに目が眩むほど青いソーダが注がれていて、その上にアイスやら綿飴やらカラフルな砂糖の粒やらが絶妙なバランスで盛られている。見た目は鮮やかで美味しそうな気はするけど、この1杯でほぼ1000円という値段設定だ。世の女子高生はこれが高いとは思わないのだろうか。
彼女は目の前のドリンクを、目をキラキラと輝かせながら写真に収めた。
意外と言ったら失礼なのかもしれないけど、こういうのも好きなんだなと思った。
その大人しそうな見た目から、明るい女子高生がこぞって飛びつくようなものはあまり好まないと勝手に思っていた。このギャップがいいのかもしれないけど。

「美味しそうでしょ」

「普段僕が摂る1週間分の甘さがこの1杯で摂れそうだよ」

「なにそれ。やっぱり良樹くん面白い感性してるね」

彼女は笑いながらアイスを口に運んだ。彼女のその幸せそうな表情につい見惚れてしまった。
今彼女のこの笑顔を見られているのは世界で僕1人だと考えたら途端に嬉しくなった。

「ねえねえ期末テスト真っ只中なのにこんなことしてる私達悪者だね。来年受験生だっていうのに」
「あーそうだね」

どうやら僕たちは現実の僕の年齢と同じらしい。そして今日はテスト終わりにそのまま遊びにきたのか。やっと状況が理解できた。

「でも明日副教科だから問題ないかっ」

「うん、なんとかなるよ。あの君…はさ、今日のテストどうだったの?」

「聞いちゃう?ばっちりだったよ。英語90点は堅いかなって感じ」

「すごいね。こっちは勉強したのに全然だったよ」

名前を呼ぼうか一瞬迷ったけど、やっぱり勇気が出なかった。夢の中でも僕の性格は変わらないようだ。
それからはただひたすらに穏やかな時間が流れた。
甘ったるいはずのドリンクが美味しかったのはきっと彼女が勧めてくれたからだ。

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残暑も和らぎ外の景色も秋らしくなって来た10月頭。
これからどれだけ寒い季節がやって来ても彼女がいれば乗り越えて行ける。
あれから僕たちは遊園地、花火大会、夏祭り、とデートを何度も重ね、夢と現実の境目がわからなくなるほどにのめり込んだ。
今日も彼女に会いに行く。

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気が付くと電車に揺られていた。隣には当たり前のように彼女がいて、鼻歌混じりに車窓を眺めている。
何を話せばいいか悩んでいると彼女が目線を変えることなく口を開いた。

「江ノ島楽しみだね」
「江ノ島?あぁ、そうだね。天気もいいし」

江ノ島には行ったことがない。現実でも行ったことのない場所に彼女と行けることに驚きつつも胸が弾んだ。
電車を降りた途端、夏に飲み込まれた。
じっとりとした熱風が頬を撫で、いくつものセミの声が四方八方から降り注ぎ、焼くような日差しに目を細める。
だけども心は清々しかった。

改札を抜け、影ひとつない広場で足を止めた。
"あっついねー"と言いながら汗を拭う彼女の表情はどこか涼しげだ。
彼女の白い肌が今日1日で焼けてしまわないか少し心配になった。

彼女はおもむろにパンフレットを開き地図を指差した。

「この岩屋洞窟ってとこと、この水族館で迷ってたんだけど水族館でもいい?」

パンフレットにはまるで受験生の参考書のように赤ペンで色々な印が付けられ、しわだらけだった。
彼女はきっと何日も前から今日を楽しみにしてくれていたに違いない。
そのパンフレットから彼女の心の中を覗けたような気がして、感動に近いような嬉しさがこみ上げてくる。

「いいよ。水族館楽しそうじゃん」

僕は彼女が行きたい所に行きたいと思っていたからちょうどいい。それにそれだけ考えて出した答えならどこに行っても正解だと思う。
10分くらい歩いたようだったけど彼女と話していたらあっという間だった。

僕たちはチケットを買って入場し、深海のように薄暗い通路を進むと段々とひんやりとした空気に包まれていった。
僕たちを出迎えたのは見上げてしまうほど大きな水槽だった。中には小さな体を寄せ合うように泳ぐ魚の群れや、ゆっくり堂々と泳ぐサメ、地を這うようにして泳ぐ魚。
数え切れないほどの魚が自由に往来していた。まるで海の一部を切り取って持ってきたようだった。彼女は引き寄せられるように水槽の前まで歩き出した。

目の前の水槽の魚にただじっと見惚れた彼女の後ろ姿は、まるでその静かな海の中に浮かぶ人魚のようで、神秘的に映った。
横顔を覗くと彼女の生まれ持った美しさと共にどこか儚さも感じられた。
きっと彼女がこの海の悲しみを1人で背負っているから海は綺麗なままで魚たちはずっと平和に暮らせるのだろう。
彼女があまりに溶け込みすぎてそんな物語を勝手に想像してしまう。

隣に歩み寄った僕に彼女がふと我に返ったような顔をしてつぶやく。

「ねぇ、私もう来てよかったって思ってる」

「僕も思うけど早すぎでしょ。まだ入ったばっかりだよ」

「だって今そう思ったんだもん」

彼女は笑いながら答えて勢いよく僕の手を取り次の水槽へと歩き出した。
あまりに突然のことで彼女の手の温もりを感じる余裕すらなかった。

僕たちはある水槽の前では自分の知識をひけらかして大人ぶったり、ある水槽の前では子どものようにはしゃいだりしながら、ゆっくりと時間を掛けて隅々まで堪能した。

水族館の出口前の最後の水槽の前で彼女は魚を眺めながら言った。

「ねぇこの子たちはこの水槽の中でしか生きられないんだよね」

「まあ、そうかもね」

「もし私たちが別々の水槽に入れられちゃったらどうする?」

「んー。そんなの絶対に嫌だけど、そうなったらまた会えるまでその水槽で生きていくしかないんじゃないかな」

「そっか。………あ、お腹すいた。なんか食べに行こ」

質問の答えはあれであっていたのだろうか。
何かもっと上手いことが言えた気がしたけど、そんな無駄な思考はすぐに遮った。

僕たちは近くの定食屋に入り、地元の名物という生しらす丼を注文した。
ついさっきまで大海原を旅していたかのように銀色に輝くしらすがたっぷりと乗った丼を見て彼女は目を丸くした。
彼女は自分の世界にあるもの全てを楽しんでいるように見える。
僕はそんな彼女に憧れの眼差しを向けていることが、時々ある。
僕たちは食べながら話し合い、江ノ島の有名な神社に向かうことにした。

神社に向かう道中に見える、陽の光を乱反射してキラキラと輝きを放つ相模湾は足を止めてしまうほど綺麗だった。

観光客を誘惑する飲食店や土産屋が軒を連ねる通りを目移りしながらやっとの思いで通り抜け、神社へと続く階段の前に立った。
階段の先にある鳥居がこちらを見下ろすようにそびえ立っている。
鳥居をくぐった先にある境内の人はまばらだった。
この朱塗りの立派な本殿は今までいくつの願いを聞いてきたのだろう。
僕と彼女は同時にお賽銭をそっと投げ入れた。
5円玉が木の板を転がり、人の思いの数だけ溜まったお賽銭の山に"カチャン"と音を鳴らして落ちた。
僕は手を合わせ目を閉じ、今までの参拝の中で1番強く願った。周りの雑音が聞こえなくなるくらいに。

目を開け横を向くと彼女がお預け中の子犬のようにこちらをじっと見つめていた。
僕は小っ恥ずかしくなって顔を背け踵を返した。彼女は逃すまいと僕の横に並び尋ねる。

「ねぇ、何をお願いしたの?」

「言いたくないよ。恥ずかしいじゃん」

「えー気になる」

「そういう君はなんてお願いしたの?」

「私は良樹くんがこれからも幸せにいられますようにって」

「僕もそんな感じだよ。君が幸せでいられますようにって」

「ふーん。ほんとかなあ」

彼女は少しだけ不満気にそう言って口を尖らせた。

"この夢がずっと覚めませんように"

こんな願いを彼女に言えるはずがない。

夕方に差し掛かり気温も涼しくなってきた頃、僕たちは相模湾を見渡せる砂浜を見つけた。

海岸線と平行に歩く彼女の左手が僕の右手をそっと掴む。
一瞬だけ心臓が波打ったけどすぐに呼吸を整えそっと握り返した。

空も海も夕日に染まり、そのまま街全体が吸い込まれるようだった。
穏やかな波の音、時々吹く潮の香りを含んだ海風、踏み出す度に少しだけ沈む足元、彼女の右手の感触。その全てが心地よかった。
この世界にはきっと僕らしかいない。そんな気がした。
僕はこんなにも優しい時間に終わりが来ることが怖かった。このまま現実に戻れなくなってもいい。ずっと時間が止まったままでもいい。このまま僕たちをずっと閉じ込めておいてほしいと思った。
彼女もきっとそれを望んでくれる。今ならそう思えた。

僕たちはそのままどこまでも続く砂浜を宛てもなく歩いた。

しばらくすると砂浜と歩道を繋ぐ階段を見つけ、そこに並んで腰掛けた。

太陽が海に沈んでいく。
また明日も太陽は変わらず昇ってくるのだろうか。
仮に太陽が昇ってこなかった場合、僕たちは前日までと同じような日常を過ごせるだろうか。

僕たちは思い出のアルバムをめくるように今までのデートをゆっくり振り返った。

初めてのデートでプラネタリウムに行ったこと、夏祭りで屋台を巡ったこと、遊園地で観覧車に乗ったこと、曖昧だった記憶もお互いが欠けた部分を付け足して鮮明に蘇った。

話が一段落して僅かな沈黙のあと彼女が口を開いた。

「この夢が覚めてほしくないって思う?」

「え、夢ってどういうこと?」

「だから、これは夢でしょ?良樹くんの」

身体の全ての機能が停止したと思う。呼吸をすることすらできなかった。彼女の口から放たれたその言葉は僕が想定していた言葉の1番遠い位置にあるものだった。いや、1番遠い位置にすら存在しないはずだった。
視線を正面に戻すと太陽は完全に海に沈んでいた。

僕は恐る恐る尋ねる。

「これが夢だって気付いてたの?」
「最初はわからなかったけどね、良樹くんと何回か会ってるうちに少しずつね」

俯き加減にそう話す彼女は僕の夢の登場人物ではなく、1人の女性として、人間として存在しているように見えた。
この前例のないシチュエーションで掛けるべき言葉を僕の頭が一瞬で導き出せるわけがなかった。
そもそも彼女は今悲しいのだろうか?それとも言えてすっきりしているのだろうか。
これほどまでに誰かの気持ちを知りたいを思ったことはないかもしれない。
ここにもパンフレットのような彼女の気持ちを読み取るヒントがあればよかったのに。

「驚かしちゃってごめんね」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

彼女が僕の目を見て謝った途端視界が歪み、気が付くといつものベッドにひとりぼっちだった。

とにかく1日が長かった。
夢での彼女のセリフがいつまでも耳に響いている。
1つの日常が壊れてしまいそうで不安で仕方がなかった。どっちが夢だろうが現実だろうがもう関係ない。僕は彼女が生きる世界に希望を見出す。それが虚構の世界だったとしても。

風呂と晩ご飯を迅速に済ませて9時頃には床に就いた。
僕は一刻も早く彼女に会いたかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

目を開けると、名前の知らない色とりどりの花が一面に咲き乱れていた。
青く澄みきった空に眩しいくらいの白い雲、その下で果てしなく続く花畑。その景色はまさに夢のようだった。

「良樹くん」

1ヶ月聞き続けて1番耳に馴染んでいる声。顔を見なくたって彼女だとわかる。声の方向を向くと周囲の花に負けないくらい綺麗な彼女の姿があった。
ほっとした気持ちが目の奥から溢れてしまいそうになりながらも僕は彼女の元へ駆け寄った。

「よかった。会えるかすごく不安だった」
「私もだよ。少し歩こっか」

舗装されたその1本道はうねりを打ちながらも果てしなく続き、広大な花畑を真っ二つに分断しているようだった。
他に人影は見当たらない。本当にこの世界には僕と彼女しかいないようだ。
彼女と肩を並べて歩を進める。
そよ風が吹く度に花が揺れ大地が呼吸しているようだった。

「本当に綺麗だね」

「うん、こんな所があったなんて」

「私この景色ずっと忘れたくないな。それからずっとこの景色が変わらないでいてほしい」

「僕もそう思う。でもこの景色を忘れたくないのは君と見たからだと思う」

「恥ずかしいなー。でもありがと」

自分で言って驚いた。前まではこんなに自分の気持ちを素直に相手に伝えられなかった。この勇気もきっと彼女からもらったものだ。

「良樹くんって向こうでも高校2年生?」

「そうだよ」

「通ってる学校は?」

「東宮高校だよ」

「そっか」

「どうしたの?」

「良樹くん。私、話さなきゃいけないことがあるの」

彼女は急に悲しみを帯びた表情でぽつりとつぶやくように言った。
なんのことかはわからなかったけど、いい話ではないということは直感的にわかった。
僕は心構えをして小さく相槌を打った。

「私たちもうお別れしないといけないの」

その言葉をどこかで予感はしていたと思う。でもその一言はあまりに残酷で心が音を立てて壊れていくようだった。
それでも僕は抗うように聞いた。

「それはどうして!?」

「私ね、夢の中の空想の人間じゃなくて現実の人間なんだよ」

耳を疑った。彼女は僕の憧れが、願望が作り上げた空想の存在だと思っていた。
実在する彼女と夢の中だけで繋がっていたということか。それを彼女から告げられるなんて。
嬉しいのか悲しいのかわからない。
今まで抱いたことのない感情だった。
まだ名前のないその感情はどこにも分類されることなく僕の中でふわふわと漂った。
それでも僕はなんとか言葉をかき集めて会話を続けた。

「じゃあ実際に北宮高校の2年生なの?」

「そうだよ」

「だとしても離れる必要なんてないじゃないか!」

「夢に固執しすぎて現実の良樹くんの人生が疎かになったら困るでしょ」

「僕は構わないよ。君と一緒にいる世界があればそれでいいんだ!」

抑えていた感情が少しずつこぼれていくようだった。
仮に彼女の言うように僕の人生が悲惨な末路を辿っても、それが彼女と幸せに過ごす代償というのなら喜んで受け入れる。

俯いた彼女の身体が人間から幻影に変わっていくように白い光を放ち始めた。
このままだと本当に彼女がいなくなってしまう。目の奥のダムは決壊寸前だ。

彼女は僕をなだめるような優しい目で問いかけた。

「良樹くんは受験の時北宮高校を受けようと思ったことはあった?」

「うん、最後まで今の高校か北宮かで迷ってたけど…」

「やっぱり…」

「やっぱりってどういうこと?」

「良樹くんが今まで見てた夢は現実とは別の選択肢を取った場合のもう1つの人生だったんだよ」

「今までの夢は僕が北宮高校を選んだら存在していたかもしれない過去ってこと?」

「良樹くんがいるってこと以外は私の現実と全く同じだったからそういうことなんだと思う」

それを聞いて今まで見てきた明晰夢が不自然なくらい現実的な内容だったのも、物語が順を追っているのも全て納得がいった。
僕が見てきた明晰夢は全て僕の過去の選択肢が少し違えば現実となっていたものだったのか。
ただこんなことできれば知りたくなかった。
どんなにいい夢を見ても目が覚めれば後悔しか残らない。もう解答できない問題の答え合わせなんて必要ないんだ。
たった1つのボタンの掛け違いで人生は、世界はまるごと姿を変えるというその事実を目の当たりにして僕は怖くなった。

「そしたら現実で会えばいいじゃないか!」

彼女が実在して近くの高校に通っていることがわかっているなら夢で会えなくても現実で会えばいい話だ。彼女ならきっとわかってくれるはずだ。

「それはできないよ」

「どうして!?」

「私、死んだの。事故に遭って」

彼女はまっすぐな目で言い放った。
とてつもなく簡単な言葉なはずなのに理解するのに時間がかかった。
彼女の言葉が僕の中にすとんと落ちた瞬間、ダムは決め手を待っていたかのように勢いよく決壊した。
信じられない。信じたくない。もう僕を弄ぶのはやめてくれ。

「死んだ?嘘でしょ?」
「ほんとなの。北宮高校2年竹内夏海。聞いたことない?」

僕ははっと息を呑んだ。まるで脳内で用意されていたかのように1ヶ月前のニュースの映像が鮮明にフラッシュバックした。
丁度彼女との夢を見始めた頃、北宮高校の学生が交通事故で亡くなったニュースを見た。確かアナウンサーが被害者の名前を"竹内夏海"と読み上げていた気がする。あの感情のない声で淡々と。
まさかあの事故に遭ったのがずっと一緒にいた、今目の前にいる彼女だったなんて。

「良樹くんが初めて私の夢を見た時、私は死んでいたと思う。それでどういうわけか君の夢の中にいて…」

僕は彼女の顔を見ることすらできなかった。
形容しがたい悲しみが大粒の滴となって僕の足元にぼたぼたと落ちていく。
世界が憎かった。罪のない彼女を容赦なく葬り去る世界が。

「でもやっぱりこのままずっとはいられないんだよ。良樹くんにとってもよくないと思うし…」

「嫌だ!君を手放すことなんてできない!」

どうにかして彼女を救いたかった。夢の中だけでもいて欲しかった。ただ僕はどうしたらいいか分からず、おもちゃを買ってもらえない子どものように駄々をこねることしかできなかった。
全身の水分が全て目から溢れ出てしまいそうだった。

「そんなに泣かないで」

「だって…。僕はこんなにも好きな君と、夏海と出会えなかった!夏海と生きる世界を選べなかった!」

「それは違うよ」

彼女は僕の頬を流れる涙を親指で優しく拭って言った。

「私たちが出会ったことは本当だよ。夢の中だったとしても過ごした時間は消えてなくなったりなんかしないよ」

「でも僕が北宮高校を選んでいれば夏海と一緒にいられたし、もしかしたら運命が変わって夏海を助けられたかもしれないじゃないか…」

「高校を選ぶ時に私と出会うことなんてわかんないんだし、私と良樹くんは出会うことのない運命だったんだよ。でも私たちは本来出会うことはなかったはずなのにこうして夢で出会えた。私たちは運命を変えたんだよ」

彼女の優しい言葉が僕の心に注がれてかえって気持ちを溢れさせた。
現実世界はこんなにも優しい彼女を失って均衡を保てるのだろうか。

「こっちの世界がなくなっても向こうは良樹くんが選んだ世界なんだから大丈夫だよ」

「でも君なしで、僕1人でやっていけるかな」

「私とこうやって一緒の世界を作れたんだから、良樹くんなら大丈夫だよ。現実だってこっちと変わらないから。これから良樹くんが歩む道にも出会えてよかったと思えるような人は絶対いるし、結局は自分の歩んだ道にあるものしか愛せないんだから」

「ありがとう。夏海と出会えて本当に良かった。夏海と過ごせて1ヶ月は本当に夢みたいで、でも夢じゃなくて。ずっと忘れないよ」

「私も最後の素敵な思い出ができてよかった。本来ならそのまま消えちゃう私を良樹くんが呼んでくれた。今まで行った場所も見た景色も抱いた気持ちも全部良樹くんからもらったものだよ」

よく見たら彼女の目からも涙がこぼれそうだ。強がってるけどやっぱり君も悲しいんじゃないか。
次の瞬間彼女はゆっくりと目を閉じ顔を近付けて来た。僕はすぐに理解して彼女のそれに応える。
彼女の温度を感じた。彼女はこっちの世界で確かに生きていたんだ。
最初で最後の彼女とのキスは荒れ狂う僕の気持ちを不思議と一瞬で穏やかにした。
自分が辿るたった1つの道にあるものを運命と呼ぶのなら、彼女と僕はお互いに"運命の人"になれたのかもしれない。
これから、そうした出会えなかった"運命の人"がどんどん増えていくのだろう。
それでも脆くて繊細な世の中を、出会えなかった"運命の人"を横目に平気な顔をして歩いていかなければならない。
彼女はこぼれた涙を拭って笑いながら言った。

「初めて名前で呼んでくれたね」

「ごめん。なんかずっと勇気出なくて…」

「いいんだよ。呼んでくれて嬉しい」

照れながら伏し目がちに話す彼女を見たらもう1度恋に落ちてしまいそうだった。
僕は最後に彼女に聞いてみた。

「また会えるよね」

「こうやって出会えた私たちならいつかきっとまた会えるよ」

「またね」

「うん、また」

僕は彼女を強く抱きしめた。すると彼女は僕の腕の中で光を放ちゆっくりと幻のように消えていった。

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目が覚めると目尻から涙が伝っていた。彼女との思い出は雨の日も風の日もたくましく咲く花のように、僕の心に根を張っている。そんな気がした。
彼女と別れた今日はあっという間に過ぎた。
特に変わりばえのない1日だ。

布団に潜ってもなかなか寝付けなくて窓を開けた。
涼しい秋風が部屋に吹き込み、美しい虫の音が心地よく耳に馴染む。
見上げると、あの日一緒に見たプラネタリウムのような満天の星が輝いている。
僕は彼女がいなくなったこの世界を愛することができるのだろうか。

それにはまだ時間がかかると思うけど、自分で選んで出会ったものを蔑ろにはしたくない。
あの星よりよりもずっとずっと遠い所から僕とその世界を、彼女が見てくれているような気がした。








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