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夜の世界を垣間見た


たくさんの居酒屋さんがひしめきあう通りを抜けて、夜のお店の案内役を果たす煌びやかな建物の横、とても綺麗とは言い難い老舗のビルの一階に、ひっそりと、そのお店はあった。


いつもサム・スミスが流れる落ち着いた空間。以前は高級クラブだったと噂で聞いた店内には、その名残からかベルベットの大きな椅子が並ぶボックス席や、少し背の高いカウンターチェアが数台と、壁にお酒を並べるための棚がしつらえてある。居酒屋と呼ぶには上品で、barと呼ぶにはカジュアルなその場所は、界隈のお店と比べても異色だったに違いない。

ひょんなきっかけから、そのお店で働く機会を頂いた。

看護師として働くことに自信をなくしていた私にとって、社会復帰するチャンスともいえる良い機会だった。社会人として(?)働いた経験に乏しかった私は、とりあえず何の職種でもいいから、働きたかった。一人暮らしを続けるための資金が必要だった。

とはいえ、お酒を扱うお店で働いた経験などない。お酒は専ら、飲む専門。きちんと作ったことはおろか、材料もわからない。(え?)ビギナーもビギナー。完全なひよっこだ。何ができるというのだ。


そんな私にオーナーが提示してくれた条件は大きく3つ。

①「オープニングスタッフとして、お店が軌道に乗るまで手伝ってほしい。」
②「お酒は作れなくても大丈夫。こっちで作るから、席に運んでほしい。」
③「もしお客さんにお酒を勧めてもらったときには相手をして(一緒に飲んで売り上げに貢献して)ほしい。」

え、そんなことでいいの?魅力しかないけどいいの?

もともとお酒が好きで、お酒を飲む場が好きで、人が好きだから、こんな好条件飲むしかない。即決だった。


いざ働き始めてみると、飲む専門だった頃の私に五月蠅く聞かせてあげたいくらい、お店側の気遣いがそこら中に散りばめられていた。


常連さんが好んで飲むお酒を把握することは当たり前。どの席のお客さんがどのタイミングで席を外すか、今日は誰と来ているか、店に来た時間帯は、今日はスーツだから接待か、私服だからオフモードかな、そわそわしているから大事な話があるのかな、お酒の減り具合は、お腹の空き具合は、飲み方は、表情は、社会情勢は、今日の天気は、なんなら占いは。

お客さんからすれば、ほんの1~2時間の滞在かもしれない。たった1杯のお酒を飲みにきただけかもしれない。でも、その時間に対するお店側の努力は、本当にすごかった。いかに満足してもらえるか、良質な時間を過ごせたと思ってもらえるか。見て、聞いて、出来る限りの感性をもって、慮る。こんなにも観察力が問われるのか。すっごいなオーナー。


加えて、もちろんのことお酒を作るセンスも問われる。ここではあえて知識・技術と言わず、センスと言いたい。このお酒を作るセンスとやらが、私には本当に皆無だった。

ビールは泡を立てまくり、初日には水と泡の比率を2:8にし笑われた。(笑ってくれてよかった。)

名前のついたカクテルはカウンター下で携帯を開き、調べながら作ることができたが、急にお客さんから「フルーツ系で。」「今日は甘くないやつで。」「お酒の味がしっかりするやつがいい。」などと曖昧な注文をされた時に、このセンスのなさが本領発揮された。まっっっっったく思い通りの味にならないのである。おもしろいくらいに。

それでも、なんせカジュアル(?)なお店だったから、他のスタッフがきちんと作り直してくれた美味しいカクテルを出すことで一大事にはならなかったけど、私だってよくあるお洒落なドラマみたいに奇跡の一杯を作ってみたかった。飲んだ瞬間ふわっと幻想に浸れるような、そんな一杯。シャカシャカっと格好よくシェイカーを扱って、お客さんを気持ちよく酔わせてみたい。今日こそは、と思いつつ出勤しては、ことごとくその幻想を打ち砕いてきた。本っ当にセンスの欠片もなかった。


 スタッフの気遣い、お酒のクオリティときたら、残るは会話力だ。どんなお客さんにも、お客さんが望む返しをする。オーナーは、人の心を読む天才かと思うくらい、いつも、ごく自然に、会話のキャッチボールができる人だった。もうあれは天性のものだと思う。いや、努力して身につけたものかもしれないけど、その努力も感じさせないナチュラルさで人を楽しませることができた。

お店の雰囲気が良くて、お酒も美味しくて、会話も楽しい。こんなお店に通わないお客さんがいるだろうか。いや、いないだろう。


オープンしたお店はすぐに軌道に乗った。早くも常連さんと呼べる人ができ、お客さんが来ない日がなくなった。キープのボトルも日に日に増えていき、棚が足りなくなった。私はというと、だんだんお客さんの顔が覚えられなくなっていった。(おい)


店が人気になってくるとトラブルもつきもので、カウンターに座ったお客さん同士が喧嘩することもあったし、満席になったときには待たせてしまったし、閉店後にも入りたいお客さんがいれば朝まで営業することもあった。時には私の些細な一言でお客さんを怒らせてしまい、なぜか(?)それが発展して警察沙汰になったこともあった。心身をとっても擦り減らして働いた。


その後本職の就職先が決まったこともあり、お店は退職した。病院で働きながらでもお店に立ちたい気持ちはあったが、私の未熟さが故にお店の質を下げてしまいかねない。なんてったって、会話にしろお酒造りにしろ、センスがなかったのだ。こればっかりは努力だけではどうしようもない。


辞めた今でもお客さんとして飲みにいくことがしばしばある。その時にはやっぱり、オーナーの行き届いた配慮に改めて感動させられるのだ。居心地が良くてお酒がおいしいそこのお店は、いつもお客さんで賑わっていた。


20時から2時まで営業し、お客さんがまだ飲みたいと言えば朝までだって店を開ける。お酒を通して作られる人と人との繋がりを大事にし、夜の街に帰る場所を作ってくれた。あのお店には本当に感謝しかない。

でも、お客さんの誕生日にシャンパンを大盤振る舞いするのを止めないと、そろそろお店が赤字になっちゃうよ、って、今度こっそり教えてあげよう。