-それでも、大切な命だったよね-
なんか、さみしいね。
子どもの責任を、親が取る。
そのために、人を殺す。
元農水次官の事件について。
あまり語りたくはないし、Twitterでも、もう語るのはやめようかな、とツイートはしてみた。
でも、やっぱり黙ってはいられない。
この事件を、肯定されたら、遠くない将来、わたしは、殺されて然るべき人間として、殺されてしまうかもしれないから。
誰だって、生きたいものだし、それは、わたしも同じ。
わたしは、多分、親からしたら、世間からしたら、社会からしたら、殺してしまった方が「正解」の人間かもしれないから。
たしかに、音楽やアート、文学などで、貢献できる周りの人には、きちんと貢献しようと思っているし、そうして、今までの活動を続けてきました。
だけど、わたしの周りの人だけでは、社会からしたら、少数派かもしれないし、親からしたら、面倒を見きれないほど、迷惑な子どもであるかもしれない。
そして、そのことは、わたしだけの問題ではなくて、多くの似たような問題を抱えている世の中の親御さんや、障がい者、食えない芸術家、働き口のないニートや、不登校から社会に復帰できずに苦しんでいる人。
そういう、色んな家族の問題でもある。
仮に、社会的に「無価値」な人間がいるとして、あなたは、たまたま社会的に「価値のある」人間になれただけで、それは、もしかしたら、ただの「気まぐれなラッキー」かもしれない。
でも、わたしとて、作家として、日々、様々な問題に向き合いながら、馬鹿にされて、笑われながら、それでも、何十本もの、何万字もの小説を、来る日も来る日も、もがきながら、書き続けているから、あなたの「価値のある」人生が、たまたま「気まぐれなラッキー」ではないことは、はっきりと理解している。
社会的に「価値のある」人間になるためには、きちんと、色んなことを飲み込んで、全うして日々を暮らして、そうして、はじめて、そういう人生を生きられる。
そのことは、わたし自身が、「価値のある」人間になろうとしているから、痛いほど、身に沁みて、わかっているつもりではあります。
だけど、誰しもが、そうして、きちんと「社会の歯車」になり切れるわけではないことも、色んな経験をして、色んな人たちと話したり、暮らしたり、してきたから、それなりには、わかっているつもりです。
それは「気まぐれなラッキー」ではないかもしれないけど、まぁまぁ控えめに話しても「良縁に恵まれた」ものであるのかな、と思います。
そして、もちろん、「良縁に恵まれる」ためには、日頃の行いも大切であったり、きちんとした物事の考え方や捉え方が必要であるのかもわかりません。
その、どちらを肯定するわけでもないし、どちらを否定したいわけでもない。
でも、百歩譲っても、殺人や自殺を、肯定してしまっては、きちんと、殺したい思いを堪えてる人、自殺したいけど踏みとどまっている人、最後の最後の一線を前にして、しっかりと、ぎりぎりのところで、その一線を越えないでいる人、があまりに報われないと思います。
まぁ、わたしのこと、なんですけどね。
ほんと、自分勝手ですよね、さっきから、わたしのこの記事といったら。
でも、最後の最後の一線を前にして、きちんと踏みとどまっている人(わたしのことです)が、あぁ、よかった、あのとき踏み外さなかったから、今のわたしが、ここにいるんだ。
そう、思える社会で、あればいいな、と思います。
元農水次官の方も、そりゃ、苦しんでいたであろうし、息子さんも勿論、苦しんでいたと思います。
でも、死んでよかった、殺してよかった、なんて、話をされてしまっては、あまりにも、それはむごい話ですよ。
どれほどの苦しみを抱えていたか、どれほとの口惜しさを抱えていたか。
それを、あの人は、死んで「正解」だった、と言われてしまっては、あまりにも、残酷すぎるし、あまりにもむごい社会すぎますよ。
あんな人だったけど、殺すのは「不正解」だよね、それでも、「命」は大切なものですよ、という言葉で、あの親子ふたりにしても、或いは、こんな絶望の淵にいるわたしにしても、「それでも、大切な「命」だったよね」、という言葉に、ほんとうは内心、その言葉に、救われるんじゃないかな、とわたしは思います。
長くなりましたが、わたしの、どうしても、胸の内に留めておけなかった(自分勝手な)、言葉を綴りました。
それでは、また明くる夜に。
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