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祖母の94年史④:はじめての下宿生活(19歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
今回は第4回目、19歳のはじめての一人暮らし(1945年/19歳)です。
祖母はよくこのときの話をします。当時の写真が残っていませんが、大きなお屋敷に家族と離れてひとり、さびしかったんだなと思いました。

1.青年学校への就職

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ー竹花というところに、新しい中学校が出来たんやけど、養成所を卒業して、19歳で青年学校(※1)に就職した。教員臨時養成所は、私らの世代でおしまいになったね。

※1「青年学校」義務教育である尋常小学校6年を卒業後、中等教育(中学校/高等女学校/実業学校)に進学せず、勤労する青少年に対して社会教育を行っていた。戦後、学校教育法が制定されるまで存在。

ー戦時中、男の教員は招集で出てってまうもんで、小学校の先生が足らへなんだの。だんだん若い先生がいってまったやろ あと年寄りの先生と女ばっかやったもん。初めはまんだ戦時中やったで、小学校の一部を借りて青年学校をやって、十五、六歳になった子を教えたんやなあ。

 学校は、関の街を通り越して、その向こうの富岡村というところやったかな。実家からもうひとつ山を越えてったところよね。
 教員は、地元でやらせてもらえない。みんな最後は地元でやりたいから、最初はよそで練習してきて、というと言うふうやね。だから私もうちから通えず、下宿することになったんや。

ー私は女学校で覚えてきた家庭科で、裁縫やお料理を教えとった。女子に、着物の作り方を教えたるの。男子には、男子の先生がおったね。校舎はちょうど小学校の別棟になっとって、その2階で教えとったね。
 生徒は、3つくらい違う子やった。ひょっとしたら同じくらいの年の子かねえ。家庭科には自信があった。女学校出てからも、半年も習っとったからね。

 月給を32、3円くらいもらっとったけど、お金使うところなんてあらへん。まわりに店もあらへなんだねえ。

ーこのときにはじめて、青年学校の生徒を集めるために、謄写版(※2)を使った

 謄写版で印刷をするやり方を教えてもらって、生徒を集める広告を出しとったんやわ。それで生徒が10人くらい集まったので、小学校の一部を借りて青年学校にしたんやね。

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※2「謄写版」蠟紙に鉄筆で書いたりタイプライターで打ったりして原版とし、印刷インクで刷る、簡便な印刷機。ガリ版。
(図は理想科学工業株式会社さんWebサイト『理想的時間旅行(2016年夏号)vol.1 ガリ版』からお借りしました。

2.初めての一人で下宿生活

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ー下宿先には、町内の資産家の婦人会長のおばあさんが、「世話したる、離れを貸したるで」と言ってくれて入れた。下宿するのに、誰が世話してくれたんやろか。
 昔はそりゃ凄い家やったろうと思ったよ。父が来た時にびっくりしとった。「こんなすごいうちやって」。屋敷が藪で囲まれとって、馬に乗って入れるような長屋門があったの。門があってその続きには男衆や門番が雇ってあったねえ。

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図:長屋門のイメージ(Wikipediaより)

ーおばあさんは60過ぎのしっかり屋さんで、足が丈夫な人で、よう出て歩きよらした。おじいさんはござらなんだけどね、昔やっとらした銀行で、財を成したんやな。 長男は年とっとったで、奥さん子供と暮らしとったけど、二人の息子は戦争に行ってござった。

孫注※ 残念ながら、この下宿先のお屋敷は、写真が一枚も残っていませんでした。

ー私が住んどった離れは、8畳二間が続いとる家やった。お勝手場もない、縁側がついとったかな。父が実家から、電車に乗って小さい勉強机を担いで持ってきてくれたねえ。
 コンロも買ってくれて、そういうこと全部やってくれたのは父なの。実家からは、いつも父が来ていて、母が来たことは無かったねえ。

 実家から帰ってくるとき、母が重箱に煮豆を詰めて持って行かせてくれた。寒い時だったのかなあ。自分には味噌汁を作って、ご飯は、ちょうど丼ぶりくらいの小さい土鍋に、コンロに火を起こして炊いた。
 コンロひとつで食事したよ。大家さんは、煮物をしてたまに分けてくれることもあった。エンドウの卵とじとかね。

ー野菜買うところもあらへんでね。店もなかったから、実家から持って行っとったねえ。
あるとき大家さんがカボチャをくれた。大きなカボチャだったで食べきれんで、床の間にちょんと置いておいたら、腐って乾燥してまった。父が来たときに、「まあお前は、カボチャが腐って乾燥するまで放っておいて、なんで食べん」と言われたなあ。

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3.寂しさに涙

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ー一人で暮らすのはさーびしかってね、学校から帰ってくるとせゃが泣けてくるやろ、そうすると泣けて泣けて、涙が止まらんかった。悲しかったねえ。大勢の中で育っとるで、一人暮らししたことなかったやろ。

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図:19歳の頃(本人)

ー私があまりに毎週実家に帰っていくもんで、大家さんが「うちの自転車貸したるで、持っていきなさい」と貸してくだれるようになったで、駅までは自転車で行っとったよ。
 駅から富岡の小学校まで、30分のよう歩かへんと着かなかった。車みたいなん、あらへんわ。駅のそばに自転車預かり所があったから、そこに預けて実家に帰っとった。

ー引っ込みじあんで、何にもよう言わなんだね。大家さんに、「お風呂が入ったで、入りなさいよ」と言われたけど、湯が熱くて入れんでね。身体だけ洗って、湯には入れなんだ。
 あとで大家さんから、「あんたあんな熱い風呂に、どうやって入った」と言われた。バケツに水を汲んで入れなないといけなかったらしいが、そんなことも知らなかった。モノもなかったしね。

4.世界はこの頃(1945年)

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世界情勢は…
第二次世界大戦の激化と終戦へ。
ー1943年:連合軍との闘いが本格化し、招集や勤労動員が拡大。ガダルカナル撤退、本土への空襲始まる。
ー1944年:インパール作戦、サイパンの戦い、レイテ島の戦い
ー1945年:東京空襲、沖縄戦、原爆投下、ポツダム宣言受諾。GHQによる民主化改革
国内は…
戦況の悪化に伴い、生活の窮乏化進む。勤労動員命令により、敗戦までに約300万人の学徒を軍需生産に動員。戦時衣生活簡素化実施要項、工業就業時間制限令廃止など。勤労挺身隊の動員の開始、学徒出陣壮行会、徴兵年齢の引き下げなど。

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(人物名や地名は仮のものです)

次のお話は今回と少し時期が重複して、19~21歳:転勤と終戦(昭20~22)。寂しい下宿暮らしを、あの人が助けてくれます。また、戦争がいよいよ終わります。
(次回はこちら↓)

(はじめに説明はこちらから↓)


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