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祖母の94年史③:女学校と戦争の足音(13-18歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
今回は第3回目、女学校時代(1939-1944年/13-18歳)です。田舎には、戦争の足音も幾分か遠かったようですが、戦争が祖母のその後の道にも影響を与えます。

1.女学校へ進級

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ー当時は、小学校で6年生になったら 、半分は高等科 に行っとった。それか女学校 に行くか、それか就職した子もおったね。どっかへ奉公に行きよったんやろうねえ。
 女学校に行くのは、クラス45人のうち5、6人だったかね(※1) 。うん、小学校の時はまあまあ成績はよかったということかね。そやそや、ある程度金がないうちは行けれなんだんやて。父が一生懸命稼いでくれたんや。

※1「45人のうち5,6人」昭和十年(1935年)の高等女学校の進学率は16.5%。当時、全国で公私あわせて約800校のみで、高等女学校で学べた女子の数は限られていた。また学費は高く、経済的に余裕のある家庭の子女しか進学できない事情があった。

 私らの村からは5人だけで、今では私一人だけしか生きとらんけどね。こんな94歳まで生きとる人なんてあれへん。

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図:女学校の仲良しと(祖母は左上)。
今はみんな、亡くなってしまった。

ー洋服つくることは好きやったから、制服のセーラー服もスカートも、自分で作ったの。きれを買ってもらって。洋裁みたいなの、誰にも教えてもらっとらへんけど好きやったんやろうね。

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図:学芸会でのダンス。

ー女学校に入った年(1939年)、一番上の13個上の姉さんの旦那さんに招集(※2)が入ってね。慰問袋を作って送ったが、戦死して届かなかった。姉さんは、20か21のときに結婚して、すぐ後家さんになってまった。旦那さんは姉と二人の子供残して死んでまったね。

※2「姉さんの旦那さんに招集」1937年から始まった日中戦争への招集かと思われる。

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図:橿原神宮(奈良)修学旅行にて集合写真。
15、6歳(1941、1942年)頃か。

2.戦争の足音

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ー女学校行ったら、そう勉強しいへなんだで。戦時中やったでね、半分は勉強したけど、半分は勤労奉仕やった。
 私らはまだ3年生のときに大東亜戦争になったでね、それまではもうちょっと勉強しとった。それからは本当に勤労奉仕ばっかりあった。私らはちょこっとやったけど、三つくらい下の人までは「勉強しとらへん」て言っとったからね。一番いかん時やったね。

 東京へも二回行ったよ。球場外縁の勤労奉仕で、リヤカーひいて、草ひいたりごみ集めたりしたね。
 授業は英語か家庭科を選べたんやけど、私は家庭科を選んだ。これは失敗やったなあ。それでも2年生になったら、英語は「米英鬼畜でダメ」って言われて無しになってまったやね。

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図:勤労奉仕で、皇居外縁の掃除へ。
岐阜から東京まで、2度ほど行った。

3.卒業後、臨時教員養成所へ

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ーそれで、女学校出た18歳の夏に(昭和18/1943年)、臨時教員養成所へ通ったの(昭和18/1943年)当時、政府の命令で、一年か二年、師範学校の校舎を借りて、臨時で教員養成所を作ったんや。
 私らは女学校3年生になってからは、本当に勉強しとらへんかったから、知識のない先生やったやろうねえ。まあ、代用教員やっとった人は皆そうやろね。

ー女学校の4年生のときに、先生を養成するための臨時養成所を、先生から紹介された。忘れてまったけど、「何やら」言う、もう一年勉強できる制度やったなあ。受験勉強もなんにもしないで、友達にも誰にも言わずに一人で受けたよ。
 あとで、友達から「なんで教えてくれなんだ」と言われた。それで資格を持っとったから、教員になれたんや。女学校を3月に卒業するときに、友達の他の皆がどこに行ったんやろか。知らないねえ。軍需工場に働きに行ったんやないかねえ

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図:臨時教員養成所の校舎
(青年師範学校の敷地を利用していた)

ー元々は、何をしようと思っとったか?当時は、習い事をちょこっとして結婚するというのが普通やって、女が就職することが難しいからね。戦争が激しくなって男がいなくなって、働くようになったよ。

 先生のように人の前に立ってやることは不得手やったで希望がなかったけど、そういう風になってまってったんや。先生やなけりゃ軍需工場やろ。父はね、そういうところへ私を勤めさせるのが嫌やったで、給料が安ても先生やっとるほうがええってね。

4.貧しい寮生活

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ー貧しい寮生活だった。全然、楽しなかったよ。
 寮はお寺の一角の中にあった。食事がまあ、お粗末お粗末。ご飯はどんぶりに8割くらいこそっと入れてまって、味噌も無かって、おすましでもゴボウのささがきがちょっとだけ入って、食事もお漬けもんくらい、そんだけだけやったなあ。
 実家で煮豆を作ってもらって持ってったけど、そんなんでよう育ったと思うよ。

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図:寮生活 朝の一瞬

ー友達とは、たった半年やったけど仲良うなったけどね。そりゃ寝食を共にしたで。寝るのも四畳半か六畳みたいなとこに、ごちゃごちゃっと4人ずつ寝とった。9月から3月のたった半年やね。
 卒業後はみんな何しとったんやろか。先生を続けるか、それか結婚してってまったんやろうね。

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図:養成所の同級生たちと

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図:第三寮第一室にて、楽しき夜の休憩時間

5.世界はこの頃(1939~1944年)

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世界情勢は…
1939年に第二次世界大戦が勃発する。日本も1937年から日中戦争を続けていたが、1941年に真珠湾攻撃を始めたことでアメリカが参戦。文字通り世界大戦となった。
1942~1943年には独軍がスターリングラードでソ連軍に包囲され陥落、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗、ガダルカナル撤退など。
国内では…
治安維持法全改正、東条英機が総理大臣就任(1941)。その後徴兵年齢の引き下げで、19歳から対象に。国民皆兵の原則が実現。総力戦体制へ。
食塩・味噌・醤油、医療の点数切符制に。「欲しがりません勝つまでは」「月月火水木金金」「産めよ殖やせよ国のため」「贅沢は敵だ!」など。

1941年に、アメリカでは世界初のテレビ放送が始まっていた(日本で白黒テレビが普及するのはこの10年以上あとになる)。
国内では、1939年に東京高速鉄道(東京メトロ)が新橋・渋谷で全通。
文化は…
米国を中心に、映画時代。『風と共に去りぬ』、『駅馬車』、『オズの魔法使い』などいずれも1939年アメリカにて公開。

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(人物名や地名は仮のものです)
今回で、<エピソードⅠ:田舎でのほほん少女時代>は終わり、次回からは新しい<エピソードⅡ:不安な下宿暮らしと終戦(19~22歳)>が始まります。

次のお話は、19歳:教員生活の始まり(昭20)。大家族から突然長屋にぽつんと独り暮らし、同時に教員生活スタート。
当時19歳のおばあちゃんが思わず涙をこぼしたエピソードなど…

(はじめに説明はこちらから↓)


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