多様性を認める教員は要らない

至る所で多様性が叫ばれる昨今、
もちろん教育現場にもその風潮は大きな影響を与えている。

ダイバーシティ教育と言われ、人種、性別、文化、国籍、宗教などの違いを受け入れて、お互いに認め合うための考え方や行動を促す教育とされている。
更に、障がいをその人の個性の一つと捉え、尊重し合って一緒に学ぶインクルーシブ教育も、この多様性を尊重する波の影響であろう。

しかし、最初に述べた世の中で一般的に使われている多様性と、教育現場で意識すべき多様性には違いがある。
その違いが分からずに、混同する教員が多い。

まず、世の中で使われ出した多様性は、信仰や価値観、考え方などの違いを指す深層的ダイバーシティのことであることが多い。
それに対し、教育において一次的に意識すべき多様性とは性別や人種、国籍、障がいなど、目に見えて判別できる違いを指す、表層的ダイバーシティであることが多い。
もちろん教育現場においても深層的ダイバーシティを意識することがないということではない。
大切なのは、マイノリティな立場の子どもも安心して教育を受けられる場になるように配慮しなければならないということだ。

しかし、世の中で使われている多様性という言葉は深層的ダイバーシティの中の『個々の価値観や考え方』のみに焦点があてられ、相手のどうしようもない身勝手さを諦めたり、受け入れるときに用いられていることが多い。
そして、この意味での多様性を教育の場に当てはめてしまっている教員が多いのだ。

だから最近の学校では、
話をちゃんと聞けない、落ち着きがない、暴言を吐く、授業中に座っていられない、寝てしまう、やりたくない教科があるなど、
様々な子どもの課題を『多様性』という言葉で片付けてしまう。

歴史から見て、学校はそもそも多様性を認めない場所である。
良くも悪くもそこは今でも変わっておらず、しかし、時代に合わせて柔軟にしてかなければならないこともあるということであって、けして子供の身勝手を許していいということではない。
そこは絶対にブレてはいけないのだ。

多様性という言葉をよく使う教員は、多様性を言い訳にして、手強い子どもの指導から逃げているだけだ。
最近は毎年クラス替えを行う学校も多く、この『多様性マウント』で手強い子どもから一年間逃げ切るという何とも無責任な所業が流行っているように思う。

つべこべ言わずに、子どもに伝えるべきことをストレートに伝えることができる教員が必要なのである。

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