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居所は変わっても、心は伝えられるから

いろいろ縁あって、学童で働いていた頃の生徒(でいいのかな?)と、電話で少しお話をした。

辞めてからもう三年くらい?、それでも未だに私のことを忘れずにいてくれるというのは、本当に嬉しいことだ。

(ちなみにもうその学童からは卒業してしまった子である。)

私は学校(特に高校)も自分ちも嫌いだったクチなので、「学校でも家庭でも無い場所」という存在が、時に子どもの心の支えになるかも知れないと、働いていた頃からよく考えていた。

「家」でも「学校」でも無い場所の存在って、とても大切だと思っています。「家」でも「学校」でも無いからこそ出せる自分があって、そこで救われることだってきっとある—そんな風に思っていたからこそ、私は学童保育で働いてきました。

機密事項みたいなものがわんさかあるので詳しくは書かないけれど、指導員の仕事はとにかく重かった、に尽きる。引き摺られて、生徒や保護者と共依存みたいになっている職員を何人も見た。

私とてそうで無いとは言い切れない。

子ども達は本当に可愛かった。私は子どもを作るつもりも無かったから余計に、まるで自分が子育てに参加させてもらっているような心地で働いていた。実際、遠足なんかに行くと出先の遊園地の職員さんなんかには「お母さん」と呼ばれることもあった。年齢的にもまあ、そんな感じに見えただろうし。

ただ、いくら可愛くっても、生徒には生徒の送る人生があって、私はそこに必要以上に介入すべきではない、そう感じていた。

人生の内、ほんの一部分を共有させてもらえればそれでいい。

学校生活の中で、私が好きだった先生たちとて、けして差し出がましい人たちでは無かった。

今では到底できないことだけれど、高校時代に、私の教科担当でも無い現代文の先生が、私を車で家まで送り届けてくれたことがある。

確か、私の担任を通じて、私が不登校気味でクラスでも浮いていて、というのを聞いていたはずだ。それを心配してくれたんだと思う。その先生の息子さんは自殺したのだとうかがった。あやうげな私を放っておけなかったのだろう。

けれど「それ以上」はいっさい何も無かった。四十をとっくに過ぎた男性教員だったし、あまり私と関わっていては周囲からも不審がられたろう、彼はさっと手を差し伸べただけに留めてくれた。

ただそのことが、二十年近く経った今でも、私の心の中、「優しさ」の記憶としてカイロのぬくもりみたいにじわっと残っているのだ。

だから私も、そうやってときどき思い出して貰える先生になれたら、それで良かった。

それに、この仕事にのめり込み過ぎて、共依存になることだけは避けたかった。もっと前にいた職場で、ちょっと難しいところのある生徒の一人を囲うようにして離さない職員にきつく当たられていたこともあって、共依存というもののよろしくなさは、いつもどこかで私の心を律していた。

学童を辞めてから、春先に列になって帰る小学生たちを見、ふいに涙がこぼれたりもした。

本当にこれで良かったのか、と自分に疑問も抱いた。

とはいえ、学童時代のいつかの春のこと、卒業式に向けた出し物が決まった時、いきなし「私はギターを弾きます!」と躍り出た私は、結局かなり拙い感じで「みんながみんな英雄」を弾くに至ったのだ。

他の同僚たちはそれに合わせてダンスをし、そうして卒業生へのはなむけとしたのだ。

あの時私ははっきりと自覚したはずだ。「やっぱり私は音楽がやりたいのだ」と。

そうして流れていった時間の中で、職場の中にあった風向きが少しずつ変わり、ここで退職しないと自分はもっと苦しくなる—そう痛感せざるを得なくなったタイミングで、私は「もうここを辞めよう」「そしてもっと本格的に音楽をやろう」、そう決めたのだった。

もしかすると、音楽のことが無かったら、私は共依存コースまっしぐらだったのかも知れない。

これから先の人生は、もしも当時の生徒たちに伝えたいことが沸き起こって来たならば、それは音楽にして届けよう、そんな風に思う。

そしてついでに、機会があったらば、先述のあの先生にも届いたらいい。

さて、また何かお仕事いただけたらいいな。

どこまでも届けられるよう、頑張るぞー。


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