見出し画像

「必殺仕事人」での悲劇に教えられたこと

「自分を大切にする」ということが、今でもどうしてもうまくできない。

思えば小学生の頃から習い事もどっさりさせられていたし、高校の志望校も自分の意志なんて無関係に決められていたし、そもそも私は「自分が本当はどうしたいのか」ということに、意識を向けることが不得意だったのかも知れない。

自分が今テレビ埼玉のCMに出演しているということもあって、我が家の居間のテレビは最近、大概テレ玉をつけっぱなしにされている。

その中で今日「必殺仕事人 激突!」の再放送を見た。

途中から見たのでなりゆきがよくわからなかったものの、とりあえず、いいところのお嬢様だった美人さんが、借金のカタに売られるシーンがあった。

「久しぶりに上玉のハツモノが入りましたぜ!」的なことをニヤニヤしながら言う悪い感じの人と、その「上玉のハツモノ」に喜ぶどすけべおじさん(多分とてもお金を持っている人)。なんというか、いかにも時代劇の悪役だ。

「ハツモノ」の意味は先日、某相互フォロワーさんの記事で拝見して理解していた…と思うのだけれど、その方の書かれた「ハツモノ」についての記事、見つけられなかった…あれ?記憶違いか?

あわれ、そのお嬢様はどすけべおじさんに喰われてしまう。

その描写がなんとも、いかに下品にせずすべてを理解させるかに心が砕かれていて、とても興味深かった。

猿轡というか、口にマスクみたいに白い布を当てられて、上半身はまったく身動きできぬようにがっしりと縛り上げられたお嬢様は、もう何もかも諦めてしまって抵抗もしない。そんなお嬢様を、案外上品にいただくどすけべおじさん。昨今の時代の安易な考えに基づきそうな凌辱の再現のたぐいとはまったく違う。

やがて口元の白い布に、真っ赤な鮮血が滲む—これ「舌を噛んだ」とかそんな描写じゃあないよなあ、破瓜ってことだよなあー私はそう察しながら画面を眺めた。

お嬢様はその後、入水して自害する。

そして必殺仕事人の人たちが動き出し、どすけべおじさんたちを成敗しちゃうのだけれど「…借金のカタでしょう?それで売られた娘は不憫だけど、借金の回収に行っただけっぽい人たちまで殺されちゃってるの、なんかひどくない?」と疑問に思った私に、夫は「こいつ、風情がねえな」と言いたげな顔をして言った。「おおかた、見てない前半できっと、悪党がお嬢様の親に不当な借金でもさせてたんじゃあないの?」

地獄太夫なんて借金もしてないのに不憫な人生よ、と言いたくなったけれど面倒だったからやめた。

地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)は、室町時代の遊女。梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という(中略)如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者に抱えられた。現世の不幸は前世の戒行が拙いゆえであるとして、自ら地獄と名乗り、衣服には地獄変相の図を繍り、心には仏名を唱えつつ、口には風流の唄をうたったという。—Wikipediaより

私は、入水して冷たくなったからだを三田村邦彦に抱えられて運ばれてゆくお嬢様を見、地獄太夫の様に生きられなかった彼女について「なにも、死ななくっても」と思った自分に、ハッとさせられた。

時代背景も勿論あれど、そうか、女の子にとってこの展開は、本来ならば死を選ぶほど残酷なものであって—地獄太夫の方がよっぽど稀な展開なのだ。

そのことに鈍感すぎた自分自身に、私はおののいた。

そしてなんだか、ひどく悲しくなった。

そうか、たとえば「ハツモノ」をひどい形で奪われたなら、死を選んだとておかしくないのだ。

自分には価値なぞ無いと、ずっと思わされてきた。

ただ「大切な女の子」として愛しまれることが、私の人生にはとにかく足りていなくって、そういうのってきっと大概、お父さんから与えられることの多い時間だったのだろうなあと、うすぼんやりと考えてしまう。

でもきっと、本来ならば皆「ハツモノ」をひどい形で奪われたりなんかしてはいけない、それだけ価値のある存在のはずなのだ。

そういうことがとんと薄くぼやけた世の中だなあ、そう思う。

どうせ枕営業なんかしたってさ、大して儲かりもしないのだ、多分。こないだ週刊誌に書かれていたっぽいアイドルだって、一夜で20万とかそれっくらいのパパ活で世の中にそれを暴かれてしまっていた。相場としてはもしかしたら高いのかも知れない。けど、うら若きお嬢さんがそんな価格で売られてしまうなんて、なんだかとても悲しくなる。

なんだろうなあ、でも、自分について「価値なんて無い」って思ってしまったらきっと、好きでもない相手と寝てお金が貰えるならば、それでいいやって思ってしまうものなのかも知れないな。

だって「自分に価値なんか無い」、そう思っているのだもの。

逆に「必殺仕事人」の件のお嬢様は、それまで自分に価値が無いなんてこと、きっと一寸も思わずに生きてこられていたのだろう。

だからその屈辱に、残虐さに、彼女は自害を選んだ。

あの入水自殺は、彼女の自己肯定感の高さによるものだったのだ。

あの、冷たくなったお嬢様を見つめる三田村邦彦の演技は、本当に名演だと思った。

彼と彼女がどういう関係性にあったかもよくわからないまま見ていたけれど、すべてを悟って心に激痛を走らしている三田村邦彦の表情には、あのお嬢様への深い愛が、そしてそこから派生する底なしの悲しみが、音を持たない嗚咽の如くにじみ出ていた。

その痛みを、苦しみを、秀(三田村邦彦の役名)が狂おしいほどに感じていることが、せめてもの救いなのだと感じられた。

世の中がけしてどすけべおじさんだけで成り立っているわけで無いということが、あの切なげな表情に描写されていた。

でも、見えなくなりがちだと思う。

世の中がいつも薄汚く感じられて、誠実な、真摯な男の人が存在するという真実を、その汚れた空気の中で見失ってしまうのだ。

どこかに絶対に秀みたいな男性がいるはずなのに、誰にだって、必ず。

なのに「自分には価値が無い」なんて考えてしまうから、見つけられないんだよね、自分にとっての秀を。

…まあ、今回しかまだ「必殺仕事人」を見ていないので、ふだんの秀がどんな人なのか、正直なところ、わからないんだけどもね。

なんてことを考えながら、三月の終わりを過ごしたのだ。

反省を兼ねて、今日はミスチルばかり聴いて過ごした。

こういう時はもうミスチルでも聴いて「きちんと女の子を大切にしてくれる男性」像を自分の中に叩き込む。桜井さんの書く歌詞の中の男性は大概、そんな感じな気がする。まあ時々はダメそうな男性も歌詞の中に出ては来るけれど、桜井さんの言葉を自分に投げかけられたものと妄想して聴くと、少しずつ自己肯定感的なものが回復してくる。そうだよな、本来はこういうモンだよな―みたいな感じで。

明日からの私は、少しでも自分を大切にしていけたらいい。

私だって本当は、その自尊心によって、時に自害を選んだとておかしくない—そんな「価値ある存在」として生まれてきたすべての人の内の、一人であるはずなのだから。


画像1

テレビ埼玉のCMに出ています、ご視聴いただけましたら幸いです!


頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。