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女に生まれて

埼玉県立自然の博物館という所があって、そこの展示の中に、レプリカだけれどこんなにうつくしい観音像があった。

慈母観音—つまり母親であるこの観音様は、同性の私でもはっとさせられるほど、艶があってうつくしい観音様だった。とにかく、色っぽい。授乳中だというのが明らかなお姿であっても、どうしても、ただようその色気よ。そもそもこれがきっと「女性」の持つ魅力なのだろう、女性というのはきっと、その形その仕草すべてが魅力的であることがデフォルトなのだと思う。

なんてことを書きながら、正直、こういった表現が正しいかと言われると私にも自信は無い。女子サッカーの選手とかめちゃくちゃかっこよくってキュンとしてしまうし、私はやっぱり「かっこいい」女性のこともすごく好きだ。そういう「かっこいい」部分が「女性」の魅力とは違う、とは言えないことを、私はやっぱりわかっている。だって彼女らはすごくかっこよくって、私を「不細工」と罵ったいつかの同級生男子たちなんかより、ずっとずっと惹かれるものを持った人たちなんだもの。

今いろんなことの価値観が変わってきたからこそ、私は改めて自分の性別とは一体、と考えてみたりもした。考えあぐねいて、やっぱり自分は女性であって、恋愛対象は結局のところ男性なのだろうと行きついた。かっこいい女性への憧憬はあくまで、母から貰えなかった部分の愛情を求める気持ちと、私を女として認めようとしなかった男子たちへの嫌悪感から生まれたものであった—と、なんとなく噛み砕いた。

女性のからだに性欲的なものは向かない。ただし、大きなおっぱいが羨ましいとか、そういった憧れはある。自分の胸が小さいこともまた、何度も言うが学生時代に自分が女として扱われずに罵声を浴びせられたことを、余計にトラウマ化させている気がする。胸が大きかったら何かが違ったのではないか、という歪んだ気持ちが根付いてしまっているのだ。

本当は「そんなことで私を測る人たちばかりでは無い」という事実もちゃんと知っている。知っているのにどうして、私は今でも何かを呪い続けているのだろう。

中学の頃「たぶんこの人は私のことを好きでいてくれているのだろうな」という男の子がいた。もしもその人すらいなかったら、私はもっと早くに潰れてしまっていたかも知れない。とはいえ何の確証も無かったのでお付き合いとかそういった展開には一切ならなかったけれど、クリスマスでもなんでもない日にB’zの「いつかのメリークリスマス」のオルゴールを彼がプレゼントしてくれたことは、今でもいい思い出だ。

でも、そういった優しい思い出がいくらあったとて、他の多数に容姿を罵倒されたりしたことによってついた傷は癒えない。

私はきっと一生、男の人と目を合わせることが苦手のまま生きていくと思うし、どうせブスだと思われている、という被害妄想にも生涯付き纏われるのだろう。ばばんと大金が手に入ったりもしたならばきっと、目を整形するくらいは考えるだろう。胸にシリコンだか脂肪注入—というのはなんやかんや中で固まったりするとか聞いたので、もっと確実な方法が爆誕したら考えるはずだ。

なんてことを考えながら、そんな自分が滑稽というか惨めに感じる。

美人だけが、たとえば水商売で成功する条件じゃあ無い。美人よりももっとすこぶる強い魅力を持っていて、男性を強烈に引き付けてしまう女性がいたりする—というのを、水商売に就いていた友達から何度も聞かされている。

きっとそういった人っていうのは、自分の魅力をきちんと理解しているのだ。自分の価値に、ゆるぎない自信を持っているのだ。

私はそれを持たずに生きてきてしまった。

今も結局、この書き始めた文章をどこに終着させたらいいかもわからなくなって、途方に暮れながらキーボードに向かっている。

ルッキズムがどうとか世の中で語られるようになってきて、きっとこの先の未来は、容姿によって人生が左右されることも少なくなっていくのだろう—とは思いつつも、おそらくそんな未来というのはまだまだだいぶ先、せいぜい私がおばあちゃんになった頃なのだろうとも感じる。

だって、私の同級生男子は私を不細工だと言った。可愛い友達と一緒にいれば「お前にあいつは似合わない、あいつはお前にとって高嶺の花の存在だろう」と蔑まれた。そんな同級生がまさに世の中を担う世代にあるのに、根付いてきた考え方を世の為人の為に捨て去るなんてこと、あいつらにできるはずが無い。

私のスカートの中を見「気持ち悪い」と嗤った奴が、容姿で人を測ることを辞めたりするはずが無いのだ。

私はそれを理解している。もしも変わることがあるとすればせいぜい、彼らが目に入れても痛くない様な愛娘辺りが、ルッキズム的な差別を受けた時に目覚める可能性とかそんな感じなんじゃあないかと思う。

だから社会を変えるつもりならばまず、傷を負った人間をいかに回復させていくかが先なのだろう—おそらく。でもその道のりは険しい。この世の中は、傷を負った人間に対し、だいぶ優しくない形に育ってきてしまったからだ。

整形手術をさせればみんな型に嵌めた様に似通った顔ばかりになり、どこか幼げなつくりの容姿に、風船みたいに胡散臭いふくらみの胸—そういった偶像ばかりがもてはやされる、どうしようもない性欲のカタマリが、今の世の中にできあがった腫瘍だ。

私はだいぶん保守寄りな人間であって、フェミニストなんていう考え方からはかけ離れた人間であるはずだと自己認識してきたはずだったのに、最近だとそれに自信を持てない。「おフェミさん」とか「まんさん」と女性を揶揄している人たちがその性欲をどういった先に向けているのかを考えると、ルッキズムなんて金輪際無くなることはなかろうな、と感じてしまう。

穿った考えを持たずに、きちんと、世の男性を信じられる自分になりたかった。男性の目を見て話すことが当たり前にできて、いちいち恐怖を覚えることもなく、健やかに世の中を渡っていける自分であったならば私は、こんな風にねちねちと愚痴らずにいられただろう。自分で自分が、情けない。

冒頭の慈母観音様を見、私は正直、あの場から離れるのが惜しかった。レプリカであろうとも、いつまでもそこで観音様を眺めていたかったのだ。

あの観音様には「真実のうつくしさ」があった。

排気ガスみたいに煙って何も見えない世の中で、すっかり隠されてしまっている、本当の、真実のうつくしさが。

あの観音様はきっと、すべての人の母親だ。この世のあまねく人々を優しく包み込む—そんな気がする。もともと秩父の観音様だし、秩父って埼玉の中でもとくだん霊的にすごい場所、みたいな扱われ方もしているし。

とりあえずレプリカであってもあの慈母観音様にお逢いできたことを幸福に想いながら、もう少し、この暗い世を生きていってみよう。

いつかスパイクの銃弾に撃たれて事切れるまで。



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