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時の流れに身を……

時を戻せるのなら時を戻してやり直したいことはたくさんある。しかし、時は戻すことはできず、やり直したいこともやり直せないまま進み続けている。そうして時は進み続けているけれど、10月以降の時間の流れが長くてしかたがない。11月に入って少しは変わりそう…ではなかった。短期間かつ心配するほどではない病で入院加療への流れに乗っているから長く感じているのだろうか。それともそれがきっかけとなって「何かが」変わりつつあってその流れに乗りつつあるからなんだろうか。

くどいけれど、自分は望んでいなくても時間は過ぎていく。1秒、1分、1時間、1日…と。時は戻せなくてもいい。せめて止めることができないものかと思う。そんなことを考え始めてしまっているのは年齢を重ねたからなんだろうか。以前はあれだけ「時を戻したい」と思っていたけれど、最近では「時を止めたい」と思うようになった。それだけ充実した時間を過ごしているということなんだろうか。それとも充実していないから「もっと時間が欲しい」ということなんだろうか。

とにもかくにも「時間」のことに関して強く意識するようになったのは、「年齢」が原因?理由?なんだろうか。それとも「当たり前にしてはいけないことを当たり前にしてしまい、なんとなく続けてしまったこと」そんなものばかりだったことに気が付いた(そのキッカケたることも思い出した)からなんだろうか。「じゃあ、改めていけばいいじゃん」と言われることはわかっているけれど、「当たり前にしてはいけないことを、当たり前にしてしまったこと」を改めていくことって並大抵の努力では難しい。それが現実、それが人間の世界。

長年続いてきてしまったことはそう簡単に変わるはずもない。「変わるはずもない」けれど「変えようとすること」は必要。その努力はしないよりもした方がいいのは言わずもがな。しかし、「変化」とは自分だけではなく相手もあって成立することだと思う。「当たり前にしてはいけないことを、当たり前にしてしまったこと」は相手側も同じ。自分の努力が相手に影響を与えれば「変化」も生まれるものだと思うけれど、そもそもそこには「構造的な問題」があってそんな問題があるから「当たり前にしてはいけないことを、当たり前にしてしまっている」と思う。だから、「当たり前にしてはいけないことを、当たり前にしてしまったこと」を改めていくことって並大抵の努力では難しいでしょう。そんな環境においては「無理だ」と思っていた方が、気持ちが楽になる。やけくそではなく。前向きな意味で。

そんなものに捉われて自分の進むべき道が曲げられることほど本末転倒なものは無い。少しでも建設的に、少しでも前を向いて自分の道を進んでいった方がましだ。

「…まし」なんだけれど、これまでがこれまでで今の状況が今の状況だから「前を向いて自分の道を進む」ことに振りきれない…ところが、辛く苦しく悲しく虚しくて堪らないから「時の流れが遅い」と感じるのかなとも思えなくもなくなってきた(この文章を書いていて)

変わる時、変われる時、変わらなきゃいけない時。

今は、その時期ということなんだろうか。

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