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吉本隆明の『マス・イメージ論』と「死」に対する考察

 吉本隆明『マス・イメージ論』はしばしば難解であると言われている。私は吉本が文学、詩、評論、ことばとそれらを取り巻く環境がこの時代に大きく変わろうとしていることを捉まえようとしたのが『マス・イメージ論』であると理解しているが、この時期の吉本は『マス・イメージ論』以外でも起こりつつある大きな変化を様々な視点から検討しており、その中のひとつに文学とは何か?という素朴ではあるが根本的な問題を考えている。1980年に行われた「文学の原型」という講演が行われているが、この講演ではこの問題が語られている。以下に私が興味深いと考えた部分を引用してみたい。

(前略)物語が成り立っていく一番初めの構造、あるいは構成、基盤を考えるとすると、それは人間の生と死に対する考え方とかかわりがあるんじゃないか。もっと極端に言いますと、同じ構造を持っているんじゃないかということが言えそうな気がする。人間の生と死の考え方がどうなっているかということと、物語あるいは文学の原型がどうなっているかということとはパラレルというか、同じ構造を持った、あるいは類似の構造を持った関係があるのではないかということが、ここで見つけ出せそうな気がするということを言いたいわけです。(中略)もっと極端に言うと、人間が生死というものをどう考えるかという、その考え方自体が物語を成立せしめているし、物語の構造を支配していると言えるんじゃないかというふうに取り出してきたいんですが、(後略)(筆者が重要であると考えた部分を太字とした。)

講演の前半では、日本で最初の方につくられたと言われている『竹取物語』や『古事記』が取り上げられて文学(物語)とは何か?という問いが提起される。上記に引用した部分は、この問いを受けて文学(物語)の基礎には生死に対する考え方があるのでは?と吉本の考えを述べた箇所になる。文学に関する考察=死に関する考察という形で吉本が考えているのが興味深い。

 では、なぜ吉本は文学(物語)の本質、死に関する考察が重要であると考えていたのだろうか。その背景に関しては、この講演の最後の部分で以下のように語られている。

(前略)それから私がこの作品の作者であり、この作品は私の個性の刻印が分かちがたく残っていると私が考えたとしても、本当にそうなのか、本当にこの作品は堀辰雄でなければつくれないかというほど、ここに堀辰雄の真の私が刻印されているかどうかという疑問の中に堀辰雄の作品はあります。しかしこの疑問は、堀辰雄だけの疑問ではありません。つまり一般的に現代の文学作品にとっての疑問で共通に言えることは、ここでかけがえのない私というものがありうるのかということです。かけがえのない私のあり方、あるいは私の死のあり方がありうるのかと、とことんまで問い詰めていったときに、「真の私というものがはたして残るのか。主観性以外に残るのかどうか。本当に残るか。本質的な意味で残るかどうか」という疑問が、現代における文学の一番根本にある問題です。(後略)通俗的な作品というのがあるでしょう。つまり大衆的な小説だと言われているものとか、流行的な作家が書いた作品だと言われているものの中にも、非常に通俗的な形でも、本当にこの人でなければ書けないのか、かけがえのない私、作者というものの存在がこの中にあるかという疑問はあります。言い換えれば、われわれがつまらない作品だと思っている作品の中にも、もちろんそういう通俗的な形で表れています。(後略)(筆者が重要であると考えた部分を太字とした。)

引用した部分の前では死に対するハイデガーとサルトルの考えを引用して特定の個人の死は特別なものなのか、それとも他の人の死と交換可能なのではないかという難題を紹介している。この問題を受ける形で梶井基次郎、堀辰雄の作品に表れる死に対する考えを検討している。そしてこの問題は現在の文学の問題でもあるという流れで上記に引用した主張がなされている。

 興味深いのは、この死に対する関心が『マス・イメージ論』の問題意識と重なっている部分がある点である。特定の個人の文学、物語、死が別の誰かに置き換えられる可能性は、『マス・イメージ論』で取り上げられた作品の個性の消失、作者や作品の解体現象につながると言えるだろう。この時期の吉本は宗教や死に対して関心を高めているが、それらへの思索を通して『マス・イメージ論』の主題となった大きな変化が起こりつつあった現在社会を検討しようとしていたのだろう。

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