見出し画像

『マス・イメージ論』吉本隆明に関する雑記①―時代認識

 現在、『マス・イメージ論』吉本隆明を読み進めているので、この本を読む際にヒントになりそうな吉本の文章をメモという形で残しておきたい。

 この本が出版されたときに、「「現在」という作者は果たして何者なのか!」という文章が帯に書かれていたが、吉本は『マス・イメージ論』を書いた時代をどのように捉えていたのか?「変生論」にそのヒントになる興味深い文章があったので、下記に引用したい。

(前略)絶えずじぶんは「にせ人間」や虚構の人間なのではないか、どこか異次元のところからべつの眼によって監視されているのではないか、そうかんがえて存在している現在のマス・イメージの変成された世界に、わたしたちが足もとからひたった不安がいやおうなしにひきだされている。

 この文章は、『脱走と追跡のサンバ』筒井康隆の小説を、虚構にはまった生活を「監視するようなカメラのような眼が、世界のどこかに具わり」、さらに「もうひとつづきのカメラのような眼」がそれを監視、どこまでも続くという「虚構の鏡地獄」を描いていると紹介したことを受けて書かれている。ここでは、常にどこからか監視されているような不安感に悩まさる時代として「現在」が捉えられている。

 少し調べてみると、ウェブ上でフリーアーカイブとして公開されている「吉本隆明の183講演」の中から、吉本がこのように考えた背景が分かるような「日本資本主義のすがた」という講演を見つけた。この講演が行われたのは1981年11月で『マス・イメージ論』が文芸雑誌『海燕』に連載されていた1982年3月~1983年2月に時期的に近い。少し長くなってしまうが、下記に引用してみよう。

(前略)私たちの時間概念といいましょうか、時間意識といいましょうか、あるいは時間感覚でもいいんです。時間感覚っていうものは何に支配されるかっていうと、大企業の寡占的な、つまり、ふつうの2倍、3倍あるスピードで成長する企業の成長する度合いに、その時間に、私たちの時間感覚、あるいは時間意識っていうものは、日常をコントロールされていると考えるのが、非常に考えやすい考え方なんです。(中略) みなさんもどこかせかせかしているとか、不安であるとか、なにか知らないけど焦燥感があるとかってことが、たぶん、もっとひどい人は病気で、被害妄想、追跡妄想があるとか、幻聴があるとかいう、みなさんの周辺にもいるでしょ、わりに目立ってくるってあるでしょう。 (中略)そのことの大きな原因のなかに、時間っていうものを基本的に支配しているのは、少数の寡占的な大規模な生産規模をもった大企業の、そこでの成長率といいますか、生産率といいましょうか、そういうものが基本的には、私たちの時間意識っていうものを支配していると思います。(後略)

 「現在」の時間感覚が「寡占的な大規模な生産規模をもった大企業」によって支配されていると述べられている。この講演では、国家と資本主義が結びついて人々を圧迫しているとも指摘されており、「現在」ではこれらによって常に監視されているようになったと考えていたのだろう。『マス・イメージ論』の「変成論」の別の部分では、「現在」を「被害妄想や追跡妄想の世界」と似ているとも述べており、この評価は上記引用文中の太字部分に対応すると思う。

 1976年6月に行われた「情況の根源から」という講演にも同じような時代認識が出てきたので、最後に引用したい。

(前略)経済的権力、社会的国家権力、経済的社会的権力が国家的に組織され、政治的国家権力自体に対しても、大衆に対しても、非常に大きな権力、力というものを及ぼしつつある、そういうふうに変貌しつつあるということは状況的でもあり、かつ本質的な問題ではないかと僕には思われます。(後略)
(前略)現実が息苦しいと社会心理学者が言える状況があるとすれば、その問題の本質は、社会的諸関係、経済的諸関係、経済的利害の諸関係、社会的国家権力の密封度、個人を何重にも取り巻いている壁の厚みが非常に大きなものになりつつあるということが、小個人、大衆を息苦しくしているいちばん大きな要因ではないかと思います。(後略)


よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。