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中世ヨーロッパに学ぶ内職の流儀―放浪学生・トマス・プラッターと在野研究

 今日から連休明けで仕事を再開される方々が多いようなので、仕事中の内職に関して私らしい話題を投稿していきたい。もっとも現在の状況を考慮すると、在宅勤務の方が多そうなので内職する必要もないかもしれないが。。。

 16世紀のスイスに物乞い同然の放浪学生(注1)から浮き沈みはありながらも、学校(ギムナジウム)の校長になり、財を成したトマス・プラッターという人物がいた。彼は宗教改革で有名なツィングリとも交流があり、その影響を受けたようだ。彼が亡くなる直前に生涯を記録した自伝が残っており、当時の社会状況が分かる貴重な資料になっている。

 この自伝によると、喜捨を求め物乞いをしながら放浪学生をする、労働しながら勉強するなどかなりの苦学をしていたようだ。彼はどのように労働と勉強を両立させていたのだろうか?労働しながら勉強している私の関心はそこにあるので、この観点からこの自伝の日本語訳『放浪学生プラッターの手記 スイスのルネサンス人』(阿部謹也訳)を読み解いていこう。

 スイスの貧しい羊飼いの家に生まれたプラッターは貧しい放浪学生として各地を遍歴し、様々な先生について勉強をした。様々な仕事をしたのちに家庭教師をしながら、ラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語を同時に勉強していたが、ツィングリの労働賛美の影響を受けて労働しながら勉強するようになる。

 見習いとして綱造りを学びながら、1人目の親方のもとでは、親方が寝るように言ってもこっそりと起きて、ホメロスと先学の翻訳を手元において欄外に語彙を書き込んでいた。また、仕事中もホメロスを手放さなかった。2人目の親方のもとでも、仕事が終わってから夜遅くまで勉強していた。この様子を親方は知っていたため、「俺(著者注:親方)がお前(著者注:プラッター)ほど学問があって、しかもそれが好きだったら、綱造りなどは悪魔にやらせしてしまうがね。」と言ったそうだ。プラッターが熱心に勉強していたことが伺える。

 ちなみにプラッターは家庭教師時代に睡魔に負けないために、生の蕪や砂を水といっしょに口に含み、眠りこんでも砂が口の中でザラザラしてすぐに目が覚めるようにしていた。昼間の労働で疲れる綱造り職人になってもこれを続けていた可能性が高い。
 
 では、プラッターは仕事にも熱心であったのだろうか?私には以下の文章を読む限りどうもそうとは思えない。少なくとも、仕事よりも勉強の方が熱心だったことが分かる。

(前略)グラタンダー(著者注:プラッターの知り合いの印刷業者)が私(著者注:プラッター)に八折版で印刷したプラウトゥス(ローマの喜劇作家)を1冊贈ってくれた。それはまだ製本されていなかった。そこで私は1ホーゲンずつガーベル(鉄製のくまで)につけ、ガーベルを麻に刺した(麻は下の方で分かれていた)。私は綱を造るとき、その前を行ったり来たりするたびにそれを読んだ。親方がくると急いでその上に麻をかけたのである。(後略)

 道具の使い方の詳細は不明だが、ここで重要なのはプラッターが、今のことばで言うと仕事の間に別のことをする「内職」で勉強や読書を行っていたことだ。しかも、外からは仕事中に見えるように仕事現場の道具に工夫をこらして勉強していることを隠すという力の入れようだ!ちなみにプラッターはこれが見つかって親方に怒られている。

 上記の文章から考えられることは、いかに仕事をしているふりをして別のことをするか?ということだと思う。現代では、スマートフォンに自分の関心のある記事や論文を表示させておいて仕事をしているふりをして読むということが考えられる。この考えがすぐに出てくるあたり、道具は変わっても人間の思考というのは時空を超えてもあまり変わらないらしい。もっとも現代では職場の拘束が中世ヨーロッパと比較するとゆるいため、集中して早く終わらせて帰るという意見もありそうだが。。。(注2)

 ともかく、内職の成果(?)もあってプラッターの評判は広がり学生たちから講義を頼まれるまでになった。最初は時間がないと断っていたものの、断り切れず親方から毎日夕方4時から5時の1時間だけ仕事を抜けることが許可されて、教会にヘブライ語を教えに行くことになった。プラッターは講義を仕事着のまま行っており、講義を受ける人は18人もいた。あの有名な神学者・エラスムスも彼の学識を高く評価しており、弟子に取ることも考えていたそうだ。彼の学識は信頼されていたと言えるだろう。

 自伝の中では、プラッターの学識の高さを示すエピソードが紹介されている。ある女王の命令であるフランス人がヘブライ語を学ぶために、プラッターのもとに通うことになった。このフランス人は最初のうちはプラッターのみすぼらしい服装を見て疑っていたが、講義終了後、プラッターの講義に感動してぜひ女王に紹介したいと申し出たそうだ。当時の学識に肩書は関係ない面もあったことが感じられる。

 プラッターは多くの人にその学識が認められたが、社会的な地位を上げたのだろうか?結論だけ先に述べると、彼は社会的な地位に固執することはなかったようだ。前述のエラスムスやフランス人の申し出をプラッターは断っている。自伝によると、自分の仕事に忠実でありたいと思っていたようだ。また、後年、学校(ギムナジウム)の校長に就任した際も、マギステル(修士)の資格を持っていないことが問題視されたが、最後までこの資格を取得しなかったようだ。上述の仕事着のまま講義を行っていたということとあわせて、プラッターはあまり肩書にこだわらず、かざらない性格であったと言えるだろう。

 以上、プラッターの自伝に基づきその生涯をつたないながら簡単に描写してみた。一部繰り返しになってしまうが、彼の自伝から読み取れる勉強と労働の両立のポイントは以下の3点だろうか?

・睡眠時間を削って勉強、読書する。
・仕事中にしているふりをして勉強する。
・寝ても強制的に起きられるようにする。

取り上げておいてなんだが、現代ではあまり参考にならないかもしれない。。。

 むしろ、現代の私たちに響くところは仕事をしながら勉強や読書をしていたプラッターの熱心さではないだろうか?プラッターの自伝を翻訳した阿部謹也の解説によれば、この時代にはプラッターだけでなく仕事をしながら勉強をしていた人々が他にも多くいたという。日々仕事をしながらも勉強や読書をしている方々を見ているが、勉強や読書に対する熱意はプラッターの時代と離れていようとも変わらないと思う。

 研究機関の外で研究を行うという「在野研究」が一部で話題になっている今だからこそ、プラッターのような人物が思い出されてもいいはずだ。


(注1)『放浪学生プラッターの手記 スイスのルネサンス人』を訳した阿部謹也の解説によると、当時の学校が守るべき規律はなかったため学校の質は様々であり、評価は高名な先生がいたかどうかで決まったそうだ。また、学生を集めるため実力行使に出る学校もあり、学生に対して今で言うところの虐待が行われることもあったという。当時の学校は市民からの喜捨で成り立っていて高名な先生のもとに多くの学生が集中するため、学生を養えなくないこともあった。そのため高名な先生を求めて、学生は各地を旅しなければならなかった。旅も過酷で物乞いをしながら生活費を稼がなければならなかった。学生は通常7, 8名のグループで行動しており、下端は「ひよっこ」と呼ばれ物乞いや泥棒をさせられた。本文では触れられなかったが、プラッターも放浪中に物乞いや泥棒をさせられ満足に勉強することができない期間が長かった。(7, 8年と推測される)

(注2)もっとも現代でも職場による。中世のヨーロッパの労働時間に関しては、『中世の窓から』阿部謹也によると、日が昇るとともに仕事がはじまり、日が沈むまで続いたという。16世紀になると昼の長い時には16時間も労働を課せられた

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