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柳田国男と戦後の言論人の橋渡し②―花田清輝と飯島衛の出会い

 飯島衛(まもる)に関しては、柳田国男と戦後発行された雑誌『近代文学』の同人との間の橋渡しを行い柳田の思想の次世代への伝承に一役買った可能性があることは下記の記事で指摘した。

数ヵ月前に投稿した下記の記事の(注3)で花田清輝と飯島衛がいつ出会ったのかが分からないと書いたが、今回の記事はその続きとなる。

 花田没後に出版された『別冊新評 花田清輝の世界<全特集>』(1977年10月発行・新評社)には、「回想の花田清輝」という花田の関係者が文章を寄稿している部分がある。その中に、飯島が「花田清輝の生命論」という文章を寄稿しており、花田との出会いについて以下のように書いている。

(前略)京大の近くに「進々堂」というパン屋がいまも店を開いている。(中略)中央のテーブルに座ると、哲学教室の若いグループがよく観察できる。その中に、紺がすりと袴をつけた、小柄だが精悍(かん)な男がいつも私の目をなぜかひきつけた。色は浅黒く、かならず終の方から入席する。その歩き方、姿勢からみて、柔道でもしたことのあるらしい感じだ。あの小柄さでは、逆業か締業の得意なタイプなのかと、ひとりで私は想像をたくましくしていた。そして戦後になった。(中略)数々の著作がでたが、そのなかで花田清輝の『復興期の精神』が、私にはいちばん読み応えがあるものだった。どんな男か会ってみたいと思っていたところ、何年かたったある日、「理論」でカルル・レヴットの著書を中心に座談会を開きたいと申し入れてきた。古在由重、高桑純夫(すみお)、花田清輝と私の組合せである。(後略)

この回想から飯島は花田と京大在学時に面識はなく交流がはじまったのは戦後であったことが分かる。ちなみに、飯島は初めて花田と会った際には進々堂で目にしていた人物と花田が同一人物であることに気づかず、初対面から2, 3年後に花田に質問してみてはじめて気づいたようだ。

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Theopotamos (Kamikawa)
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