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徳富蘇峰と民俗学研究者の意外な(?)交流②―南方熊楠の場合

 下記の記事で徳富蘇峰が非常に多くの書簡を書いていたことに触れたが、南方熊楠も多くの書簡を書いていた。自分で勝手にキャッチコピーのようなものをつくるのは気がひけるが、両者は近代日本史における東の書簡魔・徳富蘇峰、西の書簡魔・南方熊楠とも言えるだろうか。

 「書簡魔」である両者の交流はあったのだろうか。『南方百話』飯倉照平・長谷川興蔵編には、蘇峰が南方に言及している「南方随筆と続南方随筆」という文章が収録されている。これは蘇峰が社長を務めていた『国民新聞』の1926年12月8日の号に掲載された記事になる。長くなってしまうが、以下に全文を引用してみよう。

 もし新刊中において、最も記者の興味を唆る一を挙げれば、猶予なく南方随筆と、その続篇をもってせむ。これは実に奇談珍説の宝庫だ。

 紀州には由来経路の変わった人物を生じた。維新前後からでも伊達自得居士、陸奥宗光、津田出、山東直砥、北畠道竜、児玉仲児等のごとき人々がある。しかして現在でも有知の士、少なくない。しかも南方熊楠君のごときはおそらくは奇男児中の奇男児というべきであろう。

 ただ君はその外形のみにおいて、風変わりでなく、その一切が風変わりだ。君は真にわが思うままに世間を渡りつつある。もし昭代の逸民を求めば、君がごときがその標本であろう。

 君は博士には多くすぎる程の学識を持っている。如何なる学界上の名誉も、君には不適当であるまいと思わるる程の学者だ。されど我儘、気儘に、わが好む所、欲する所に任せて、毫も世間と妥協しない。これが君の流儀にして、その流儀の迸(ほとばし)り溢れたるものが、この随筆二巻だ。

 さればこれを読めば、あたかも君に面して、その談話を聞くがごとく、左史右図(さしうず)、混々として尽くる所を知らない趣がある。君や和漢洋の学問に兼ね通じ、特に語学はその長所の一にして、英、仏、独、露、伊、蘭、支那、サンスクリットの語に兼ね通じている。しかしてその記憶力や絶倫にして、かつこれを駆使して、その用に供する伎倆もまた非凡だ。

 君の本領は生物学にして、特に粘菌の研究には、世界的名声を博している。その大正十五年まで、世界に報告せられたる粘菌の総数は、二百九十七種にして、うち君が独力にて発見報告したるもの、百三十七種、君の指導を受けたる門人等の報告にかかるもの、五十七種ありという。しかして最近摂政宮殿下に、君がその標本を献上したることも、新聞の報ずる通りだ。

 されど君の興味は八方無碍(むげ)だ。特に人類学は、君のもっとも趣味の存する所と見え、随筆中には、その題目が過半を占めている。

 素直に言えば、予は君の所説に悉(ことごと)く感服するものではない。君の考証は博引旁捜なれども、その結論には、時としては首を捻らなければならぬ点がないわけでもない。されど精当、不精当は姑(しば)らく措き、これを読んで何らかの暗示を受け納るるを、禁じ難きものがある。

 予は本書にて、君が酒客なるを詳(つまびらか)にし、下戸の申し分であるが、禁酒といわざるも、せめて節酒して、延寿百年、わが学界に、今後愈(いよい)よ益(ますま)す貢献せられんことを、祈らざるを得ない。

(筆者注:一部ふりがなを追加した。)

 この文章は岡書院から出版された『南方随筆』と『続南方随筆』を読んで蘇峰が書いたものだろう。蘇峰が南方のことを高く評価していたことが分かる。余談だが、同じ年(1926年)に、これら2冊の先に本山桂川が編集した『南方閑話』も出版されている。

 また、南方の蔵書をデータベースで確認すると、蘇峰の『近世日本国民史』第1~26, 30巻、『赤穂義士観』が所蔵されていることが分かった。『近世日本国民史』が連続で所蔵されていることから少なくとも南方は蘇峰のことを知っていたと言えるだろう。

 しかしながら、両者の書簡をデータベースで検索してみたところ、両者の間の書簡は確認できなかった。両者の交流はなかったと思ってさらに調べていたところ、今年の4月に発行されたばかりの『熊楠研究』第14号に「幻の徳富蘇峰宛書簡―南方熊楠の情報戦略の一側面」岸本昌也という論文が掲載されているらしいことが分かった。資料紹介というページに載っていることから今まで知られていない資料が見つかったのだろうか。いずれにせよこの論文は読んでみたい。

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