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民俗学の周辺にいたもう1人の柳田国男

 柳田国男と聞くと、ほとんどの人が最初に思い当たるのは民俗学の創設者のひとりである「柳田国男」であるかと思う。しかしながら、民俗学と深い関係にあったある人物の周辺にもうひとり「柳田国男」がいたことはほとんど知られていない。

 日銀総裁、大蔵大臣を歴任した渋沢栄一の孫・渋沢敬三は、民俗学の研究者としても知られている。彼の幼少期を振り返って民俗学的な研究材料がみられるかとうかを考えた文章の中に「柳田国男」が出てくる。その文章から以下ように引用してみよう。

(7)うろ覚えの民俗 (前略)深川の家に大きな池があって一度落ちて死にそこなったことがある。その時助けてくれた書生さんの本名が奇妙なことに柳田国男といった。助けられて着物を換える時気がつくと、常時持っていた水天宮様のお札が二つに割れていたので、そのために助かったのだと女中達が本気で驚嘆し合っていたのを覚えている。(後略)(『祭魚洞襍考』渋沢敬三 岡書院より。引用元は『小さき民へのまなざし』川島秀一編。一部筆者が重要だと考える部分を太字にした。)

敬三のこの回想によると、この「柳田国男」は渋沢家の書生をしていたようだ。敬三は柳田国男とともに民俗学の創設期に大きな影響を与えた人物のひとりであるが、偶然というものは恐ろしいものだ。

 しかし、厳密に言うと、この書生の名前は「柳田国男」でなく、「柳田国雄」であることが分かっている。敬三の還暦の記念につくられた渋沢家の写真を収録した写真集である『柏葉拾遺』(はくようしゅうい)にこのことが述べられている。写真とともにこの部分を下記のように引用してみよう。

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まずは1枚目。一番右が当時書生であった柳田国雄だそうだ。

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柳田国雄が単独で写っている写真もある。

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この写真には下記のような解説が付けられている。

後方塀の外は九番地。初め穂積陳重の住居。後尾高惇忠居宅。立てるは柳田国雄。敬三庭の池にすべり落ち溺れかかりしを救い上げし事あり。

敬三が幼少期に落ちたという池の写真も発見した。

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上記の写真のすべてに「篤二写」とあるが、これらの写真は敬三の父親である渋沢篤二によって撮影されたものであることが分かる。篤二は多趣味な人物で写真を趣味のひとつとしていた。

 最後に、柳田国雄の名前をウェブ上で閲覧できるデジタル版『渋沢栄一伝記資料』で確認したところ、栄一の思想を学ぼうとする竜門社に所属していたことが分かった。栄一のことを尊敬していたことが伺える。

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