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「日常の思想」にまつわる難題ー「方法としてのアナキズム」鶴見俊輔のメモ

 最近以下の読書会のために、『身ぶりとしての抵抗  鶴見俊輔コレクション2』鶴見俊輔・黒川創編(河出文庫, 2012年)を読み進めている。この本は、思想を行動(身ぶりや手振り)、肉体の反射、習慣をも含めた幅広いものとして考えることを論じていた鶴見の激しい社会運動や抵抗以外の広い意味での「抵抗」の可能性を論じた文章を中心に収録したアンソロジーである。(僭越ながらこの本を私の方で取り上げさせていただく。)

この本の中に「方法としてのアナキズム」という1970年に『展望』という雑誌に書かれた論文が収録されている。この論文で、鶴見はアナキズムを政治的な運動だけでなく、継続的なアナキズム運動のために「個人のパースナリティーであり、集団の人間関係であり、無意識の習慣をふくめての社会の伝統」から「アナキズムをほりおこす」ことが重要であると論じている。しかしながら、生活や伝統に根差した「静かなアナキズム」に関して、鶴見は以下のような課題を指摘している。

権力的支配のない相互扶助の社会、というような理想主義的な構想をもつと、その反動として、それがいらだたしさをつのらせ、テロリズムにかわる。このコースをかえるために、なにか鎮痛剤をあたえていらだたしさをとりのぞき、きばのない静かなアナキズムをつくることがよいと、私は考えているわけではない。(私が好んでいるアナキズムは、静かなアナキズムだが、きばのないものではない。)
(前略)小さい状況に集中すれば、そこにはアナキズムの理想を実現しやすい。それは地域、友人のつきあい、個人の私生活、最終的には個人のある時の観念ということになるが、この種の退行がアナキズムに弾力性をあたえる場合もあろうし、逃避に終る場合もある。(後略)

鶴見によると、「静かなアナキズム」を目指して自分の身の回りに集中することは、持続的な「抵抗」になる可能性がある一方で日常生活に埋没してしまう「退行」になってしまう懸念があるという。そして、アナキズムを小さな状況からはじめてより大きな運動にしようとしてそこから離脱すると、「権力的支配関係をおしつぶすもう一つの権力関係をめざす」ということになってしまい、小さな状況を圧迫するものに転化してしまう。

 これはアナキズムだけでなく「日常の思想」と呼ばれるような考え方すべてに関係している課題であると私が考えている。日常から出発して大きな状況に働きかけていくことを目標にしていると、その目標のために日常から離れてしまう時が来てしまうかもしれない。一方で日常に止まり続けることを優先させると、いつか大きな状況を見失って日常生活に埋没してしまうかもしれない。このような矛盾をはらんだ難題を「日常の思想」は常に抱えており、現在の私たちの宿題にもなっていると私は考えている。

 鶴見はこの難題に自覚的であったからこそ、身の周り(小さな状況)から「アナキズムをほりおこす」という表現を使用したのだろう。いつもと変わらない風景、予定調和の「日常」の中に潜む「いつもの日常」に回収されない別の風景、可能性を追求するのが鶴見の「日常の思想」であり、彼の方法であると私は考えている。「方法としてのアナキズム」は、鶴見の思想の重要な部分に触れられるよい論文である。

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