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柳田国男の伝説研究者・藤澤衛彦批判?

 藤澤衛彦(もとひこ(もとひこ→2021/11/3  正しくは、「もりひこ」Webでご指摘いただく。)は伝説を研究しており、『日本伝説叢書』を編集した研究者として知られている。また、以下の記事でも指摘されているように、艶本の関係者であった梅原北明と交流があり、『猟奇画報』という雑誌を編集していたという現在で言うところのアンダーグラウンドな趣味人という面もあった。

 柳田国男も伝説の研究をしていたが、藤澤と交流があったのだろうか?私が知る範囲で両者の交流があったかどうかは分からないが、柳田の藤澤の評価が推測できる文章がある。以下に引用してみたい。

電報をありがたう そちらはもう寒いでしやう どなたも御達者ですか セルバン(端西のザシキワラシ)のことをかいた本はもつてかへりました、よんでから上げたいとおもふと中々早く送ることが出来ません 御希望なら先づ御目にかけましやうか、貴君の童話集には茫漠たる標題をつけてハ損です 藤澤の本見たやうな感じがするから(大正十?年十二月十五日 岩手県上閉伊郡土淵村山口 佐々木喜善様 柳田國男 絵はがき)(『定本 柳田國男集 別巻4』(筑摩書房, 1971年)より引用。一部を現代仮名遣いにあらためた。)

上記のはがきは柳田から佐々木喜善に送付されたものである。柳田が佐々木の本の題名に関して、アドヴァイスを行っている。これに関しては、少し補足したい。佐々木は大正11年(1922年)8月に柳田が企画した炉辺叢書の1冊として『江差郡昔話』を出版しているが、柳田のアドヴァイスはこの本に関してだと推測できる。藤澤は『日本伝説叢書』を1920年に出版しているが、柳田はこの本が念頭にあったのだろう。

 ここで注目したのは、柳田が藤澤のことを「君」付けしていないところである。1921年前後に佐々木に送付された他の柳田の書簡を確認すると、岡村や折口など柳田と交流があった人物には「君」が付けられている。このことを考慮すると、柳田は藤澤とは交流がなかったのだろう。また、ここから柳田と藤澤の伝説の研究に対する考えに距離があったのではないかということも推測される。両者の間に違いがあったのか、あったのであればどのような違いがあったのかは今後調査していきたい。

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