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木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』についてのメモー「瀉瓶相承」される思想

 木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』(青土社、2024年)をご恵贈いただいた。鶴見俊輔はハンセン病の問題に長年かかわり続けていたことが知られており、ハンセン病に関する文章を多く残している。本書はそれらの文章のいくつかを収録したものである。

この中に「五十年・九十年・五千年」という文章が収録されている。この文章は、ハンセン病の歴史、鶴見とハンセン病の問題に取り組む人びととの交流を述べたもので、私は後者を興味深く読んだ。この文章は、拙noteの以下の記事でも紹介したことのある黒川創編『鶴見俊輔コレクション② 身ぶりとしての抵抗』(河出文庫、2012年)にも収録されており、以前にも読んだことがあるので再読となるが、前回読んだ時には気が付かなかった以下の点が興味深いと考えたので引用してみたい。

彼(Kamikawa注:志樹逸馬)は小学生のときに発病して、多摩全生園(当時は全生病院)に収容され、家から遠ざけられた。後に、彼の詩集が発行されたのが機縁となり、親類の人たちと会うことができたが、それまでは孤独な少年として療養所の内部で、自分の教養をつくった。そのとき彼に、文学への手びきをしたのは、年長の文学好きの青年たちであり、その人びとは次々に死んでいった。栗生楽成園のトロチェフの場合には、血のつながりのある祖母が教養を彼につたえたのだが、志樹逸馬の場合には、血のつながりのある祖母が教養を彼につたえたのだが、志樹逸馬の場合には、血のつながりのない年長の青年たちがその心にあるものをおさない同病の少年につたえた。いずれの場合にも、中世とおなじく瀉瓶相承しゃびょうしょうじょうがここに実現した。それは、同時代の日本の潮流とかかわりのないもので、大正時代には人気があり後には日本の軍国主義批判の故に人気をうしなったインドの詩人タゴールの詩風を志樹は受けつぐこととなり、日本の同時代にまれな詩風をはぐくんだ。(後略)

 志樹逸馬は鶴見と交流のあった詩人であり、数年前に国立ハンセン病資料館で特別展が行われた。鶴見は、志樹は同時代の潮流から離れていたからこそタゴールの詩風を受け継いだことを論じている。

 ここでキーワードになっているのは「瀉瓶相承」である。私はこの言葉を聞いたことがなかったので調べてみると、「WEB版新纂浄土宗大辞典」に立項されていた。これによれば、「瀉瓶相承」は「師から弟子へと教法が次々に受け継がれていく際、その教法の授受が、あたかも一器の水を他の一器に移すように、一滴たりとも遺漏なくすべてが伝えられ、受け継がれていくこと」であるという。

 鶴見は、志樹の詩風がハンセン病の療養所という孤立した場所でひっそりと伝承されたものであるということから「瀉瓶相承」ということばを使用したのだろう。以下の記事で紹介したように、鶴見は個人の思想の持続、保ち方を重要と考えていたが、ここではこの関心が個人を超えた問題、思想の伝承の問題にまで拡張されている。鶴見は個人を超えたある思想の維持、その保たれ方にも注目していたということは、今回再読する中で気が付かされた点である。

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