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日本国民を愛するあまりボロボロの宿に住み続けた天皇



天皇がこんなところに住むなんて…!
数年前、宮内庁より昭和天皇が
生活をしていた住居の写真が
公開されたことを皆様はご存知でしょうか?
しかしその写真に大きな反応を示したのは
なんと海外の人たちで
大きな話題となったのです。
さらにその部屋と合わせて
公開されたエピソード
に世界中が然としたと言います。
一体何がそこまで彼らを
驚かせたのでしょうか。
早速見ていきましょう。



数年前昭和天皇が過ごした住居の一室が
約70年ぶりに公開され、
世界中でとても大きな話題となりました。
公開されたその写真は戦中から戦後にかけて
昭和天皇が住んだ住居だったのですが、
あまりに衝撃的な要素に
全世界が驚愕したのです。


その写真が公開された時海外の人たちは
驚愕するとともに日本の天皇が
こんな場所に住んでいるわけがないだろう。
このニュースはフェイクなのではないか
という話題すら飛び出しました。


それほどに衝撃的な住いが
公開されたので当初は日本国内は
もちろんのこと、
世界でも真実だと
思われなかったほどだったのです。


しかし、その後、宮内庁から
公表されたことが確認され、
実際にその家に昭和天皇が住んでいたことが
事実であることが証明されました。


その写真は戦後70年という時を経て
一般に公開されたのですが、
皇居と呼ぶには信じられないような
写真だったのです。


床は抜け落ち壁という壁は
地下室の湿気で崩れ落ちて
原形はとめておりませんでした。
地下室のため湿度も高く
夏場にはむせかえるような環境であることが
容易に想像できるような場所です。


あまりにもみすぼらしい部屋が
昭和天皇が過ごした部屋として公開され、
間違っても国のトップが過ごすような
住居ではないと
世界中で取り上げられ大きく
報道されたのです。


お世辞にも綺麗とは言えない写真に
映っているみすぼらしい住居は
高居の地下にある
御文庫附属庫という部屋でした。


御文庫附属庫とは第2次世界大戦中に
造られた防空壕です。
その目的は
主に昭和天皇を含めた皇族の
防空施設として作られていたので
かなり地中深く掘られていることもあって
安全性はかたるものである一方、
日本の土壌的な問題もありかなりの
疾を帯びるため、
息が詰まるような部屋でもありました。


そして第2次世界対戦末期戦火が激しくなり、
いよいよ日本本土にまで
米軍の戦闘機が従来爆撃の危険性が
非常に高まった時にやむを得ず
御文庫附属庫へその御身を
お隠しになったのです。
いつ空爆されるかも分からない中、
国民を置いて
自分だけがおめおめと
逃げるわけにはいかぬと
ギリギリまで昭和天皇は
防空壕へ避難することはせず、
最後まで疎開をすることもしませんでした。


そして1945年3月10日未明、
歴史的にも日本に大きく
爪跡を残すこととなった
東京大空襲が発生。


東京の空には数多くのB29が従来し
町を火の海へと変えて行きました。
東京の町を取り囲むように爆弾を落とし
春の風に乗って火が回るように
焼夷弾が落とされたのです。


都民たちは逃げ場をなくし、
たった2時間の間に
約10万人という命が犠牲となりました。
被災者も約100万人を超え、
慎ましい生活を送っていた人たちの日常を
奪っていったのです。


もちろん皇居も無事ではありませんでした。
米軍の作戦では皇居を狙う
予定ではなかったそうですが、
春の風の流れや入り乱れる戦闘の中
必ずしも爆弾を避けて落とすことはできず
皇居や明治宮殿等が全焼。


その旨が昭和天皇へ伝えられると、
そうか燃えたかこれで
国民とやっと同じになったなと
目を閉じて静かに涙を流したそうです。
住まいを失った陛下は防空壕で
暮らすことになりました。


先ほど言った通り
昭和天皇が暮らしていた防空壕は地下深く
掘られた御文庫附属庫。
水が染み出しポタポタ落ちる。
スーツを吊るしておくと
一日で絞れるほどの水を含む。
呼吸をするのにも体力を使うような湿気が
まとわりつくような部屋だったと言います。


侍従のものが天皇陛下をこんな場所に
住まわせてはいけないと御所の新居を
何度も提言するも昭和天皇は
決まって首を横に振り続けたと言います。


国民には住む家のない人もいるのに
私はこれだけのものがあるのだから
新しい住まいなど不要と侍従
からの進言に聞く耳さえも
持たなかったそうです。


さらにこの防空豪の中で
玉音放送の録音を行い、
その玉音放送を聞いたのも
またこの御文庫附属庫だったと
言われています。
そしてそこから日本は
再興への道を歩み始めました。


日本国内は終戦を迎えた後
すぐに復興が始まり、
ものすごい速度で日本の高度成長期へと
突入していくこととなります。
自動車が国内を走るようになり、
日本はテレビ放送へ向けて
東京タワーの建設も始まりました。

国民が戦争の傷を背負いながらも
懸命に前を向き日本が豊かな国になることを
夢見て突き進む中、昭和天皇は
それでもずっと防空豪だった御文庫附属庫から
住まいを移そうとはしませんでした。


現在の上皇陛下がいよいよ
昭和天皇の住居について
ご進言された際ですらも
まだ戦争で傷ついた国民は多くいる。
私は国民に寄り添っていたいのだよ。
と新居には移らないと話していたそうです。


そうして日本に東京タワーが建ち、
国民が希望に夢を膨らませているその時も
上皇様と上皇后様がご結婚なされ、
国民が祝福ムードに包まれている祝の時も
ずっと防空壕であった地下の
ご文庫付属庫に住み続けていたのでした。


そしてその傍には
香淳皇后が常にお座りになっており
あなたの好きなように。と笑顔で
昭和天皇の意志に寄り添い続け、
お2人で御文庫附属庫に
住み続けたのです。


そうして、すっかり日本が
高度成長期に突入した様子を見届けた上で
新居の建設を承諾。
昭和天皇と香淳皇后はようやく新しい皇居へと
移り住むことを決意したのでした。


しかし、何度も宮内庁へは
建築費用を抑えるように伝え、
必要以上の過度な装飾や
過剰すぎる設備は不要と
言い続けられたのです。


そして住居が出来上がったのが1961年。
やっと新たに立てられた
吹上御所に移られました。


上皇両陛下がご結婚なさってから2年、
東京タワーが開業してから3年、
終戦から16年経った時の出来事だったのです。


そして新しい住居に移り住む際、
昭和天皇は一言、
感慨深くこうつぶやきました。
こんな良い家に住めるようになったのも
みんな国民のおかげだ。


こうして御文庫附属庫は
昭和天皇の住居という
大役を務め終えたのです。


この御文庫附属庫は昭和天皇が
戦時中に過ごした場所でありながら
使われなくなった後も
しばらく公開されることはなく
その場所の存在は長い間、
秘密とされてきましたが
いよいよ戦後70年の節目として
公開されたのでした。


そのため写真が初めて世に出た時、
特に海外の人々はこの住居が本当に
昭和天皇のものであることを
疑問視すると同時に
言葉にならなかったと言います。


今でこそ世界から
高く評価されている天皇家が
このような住に自ら望んで
住んでいたという事実に
もっと良い部屋で良い暮らしをしている
ものだとばかり思っていたが
一国の主の住居だなんて信じられない。
しかも自分から望んで住んでいたなんてと
世界中の人が驚き畏怖にも近い
反応を示したのでした。


世界最古の歴史を誇る皇室が
こんな質素な生活をしてるなんて
考えられないよ。
世界の国々を見て見れば、
たくさんの王朝や権力、
統治者たちは消えては
現れを繰り返してきました。


そのほとんどは武力や暴力によるもので
多くの犠牲者を生んできたことは
言うまでもないでしょう。
倒された側は血族でさえ
この世から葬られた例も少なくありません。


その大きな要因は支配と使役という関係が
その国のあり方だったのです。
現在の世界情勢を見渡してみても
まだまだ見られる考え方と
言っても過言ではないでしょう。
権力者はより豪勢な家に住み、
豪勢な装いが許され、
それを持って権力者とするといった
国民は統治者の支配下に
いることであるというのが
大半の国の考え方だったのです。


国王や皇帝は自分の権力を求め
国を支配し国民から搾取する。
それゆえ恨みを抱いた者が政権を奪い
多大なる人命の犠牲を払って
新たな政権や王朝を立てる
ということを繰り返してきました。
現在でも遠い国の話ではなく
ミャンマーやアフリカ
各国を見ていてもよく分かると思います。


しかし、世界で唯一日本の天皇だけは
国民を大御宝としてきました。
建国の理想の下に天皇陛下が国民を
我がこのように慈しみ
国民に思いやりを持って
祭り事を行ってきたのです。


だからこそ神話の時代から
今日まで一系の皇室が
125代も続いているのではないでしょうか。
さらに昭和天皇をとして
質素倹約を徹底的に教育係から
叩き込まれていることも有名であり、
天皇家は必要以上の過度な
装飾を嫌うと言います。


有名なエピソードとしては
教育係だった乃木学習委員長が
穴の開いているのを来てはいけないが
ツギの当たったのを着るのは
ちっとも恥じゃないとお話をされたことから
昭和天皇は穴の開いたのには
ツギを当てておくれと
侍従に語られ、燕尾服用のオーバーの
一着を継ぎはぎしながら
18年も着続けたのです。


ちなみに学生服も同じように
継ぎはぎだらけになっているのです。
この制服は学習院大学資料官に残されて
いるということでも有名です。


他にもボロボロのスリッパを履き続けており
国民が大変な生活をしているのにも関わらず
日常生活用品はこの程度で良いのだと
新しいスリッパを渡されても
履き替えませんでした。


結果、昭和天皇はあの防空豪の中で
穴の開いたスリッパを履き続けいよいよ
スリッパの体をなさなくなった時に
ようやく新しいものへと
履き替えたと言われています。


さらにご自身から
何かを望まれるということはなかったと
言われており
それは食べ物に関しても
同様だったと言います。


自分からあれが食べたいこれが食べたい
ということは
1度もなかったそうです。


しかも、終戦後の1950年頃に
昭和天皇が食べる食事に関して
侍従が進言したところ
私のためにお金のかかることはむしろやめて
困っている国民も多い時代なのだだから
その点をよく考えてください。
と侍従を嗜められたと言います。

ただ唯一、好物のお茶漬けだけは
毎回お代わりを所望されていたそうです。


そして終戦から随分たってなお
食事にすら無欲であることを
心配した侍従の1人が
もっと食べたいものはないのですか。
もっとたくさん食べてください。と話すと
昭和天皇はそれでは大盛にしてください。と
茶めっけのある穏やかな笑顔で
答えたと言います。


さらにこのとても慎ましやかな
精神は昭和天皇から上皇様、現天皇陛下にも
脈脈と受け継がれているのです。
両陛下の執務室は極めて慎ましく、
国際的にも類を見ないほど色素であることが
今回の御文庫附属庫の公開に際して
改めて注目を集めたのでした。


さらに合わせて、
あるトルコ人が天皇陛下の
執務室に関してのある画像を
投稿しその内容もまた改めて
注目されることとなったのでした。
そのある画像とは
天皇陛下の執務室だったのです。


各国の王族や首脳の執務室というのは
外交的な意味も合って
とても豪華できらびやかに作られている
ことも多いことはご存知でしょうか。


投稿主であるトルコ人の方は
トルコの政治にまつわる執務室や大間など
自国と日本の比較を例に出して
紹介していたのですが、
あまりにも日本の内装と
違いすぎて各国が驚いたのでした。


乱豪華であればあるほど国が豊かである、
または権力を持っていると言ったある意味、
物質的な面での豊かさが
基準となってしまっているのです。


一方で日本は豊かになればなるほど
ある意味、物質に執着をしない
執着を手放すということが
心の豊かさ高きさ気高さを象徴するかのように
豪華絢爛とは掛け離れた精錬された
様相へと変わっていくのです。


SNSに公開された天皇陛下の執務室は
余分な装飾物はなく、
明るくシンプルでそれでいて
気品すら感じるその空間は
高貴と表現されるほどでした。


昨今、世界中で価値観の
大きな変化が起こっていると言っても
過言ではなく、物の豊かさよりも
心の豊かさの方が大切であると
世界中の人たちが
気づき始めた結果、
日本の天皇陛下の執務室が
とても洗練された空間として
評価されたのでした。


さらに天皇陛下が日々、
執務室で行われるお仕事の中には
国会の指名に基づいて
内閣総理大臣を任命すること、
内閣の指名に基づいて
最高裁判所長官を任命すること、
国会を招集すること
法律や条約を交付すること、
栄典を授与すること大使の信任状を
認証することなどが含まれています。


各閣議決定の書類は毎回閣議の後に
天皇陛下のお手元に届けられ、
天皇陛下は全てご覧になった上で
ご署名やご応援を行っており、
その件数は年間1000件以上に上ります。


皇帝の執務室でありながら
非常にシンプルな内装であることや
そして自国との大きな違いに対し
驚きと悲嘆の声が殺到したのです。
もちろんこの精神は
愛子様にも受け継がれており、
過度な装飾はなされなかったり、
ご自身のティアラ制作のご辞退を始め
一般人が切るようなGUというブランドの
ワンピースを来ていたことなどからも
とても慎ましく国民に寄り添った皇族の精神が
受け継がれていると言っても
過言ではないでしょう。


こんな国民思いの君主を持てる
日本人は幸せ者だね。
日本の皇室が1000年以上続く
理由なんだろうな。
日本はこのように装飾品で
飾り立てない魂の美しさや
精錬された精神を尊んできました。


必ずしも物質的な豊かさが
権力とはなり得ないのが
日本の魂とも言えるのではないでしょうか。
ものはあっても精神的に
熟していないのであれば
高貴ではない。その精神の美しさと慈しみが
国民に2000年以上にわたって愛される
秘訣と言っても過言ではないのです。


70年の時を経て公開された昭和天皇が
長年過ごした防空豪をはじめとして
世界最古の皇族がなぜそれほどまでに
長い歴史を刻んできたのかを
まざまざと感じそして改めて
驚く一幕となったのでした。


日本は戦後本当に苦しい中で
生きて高度成長期を迎えました。
日本の価値基準は海外のものとは
全く違います。
ものに執着をすることで
権力を振りかざすのではなく、
心の洗練さが何よりも
大切であるという精神を
これからも忘れずに
次の世代へ受け継いでいける
日本人でありたいものですね。






美しい日本精神を取り戻すために
取り組ませて頂いています。
少しでもご関心がある方は
是非、ご覧ください。
お待ちしております。

TOP - モデル都市推進本部 (tasuke-i.jp)


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