見出し画像

きつね狩り

わたくしは穏やかな湖の水面のような日々を送りたいだけだったのです。
昨日と同じ今日を、今日と変わらない明日を迎えたいだけだったのです。

仕事を終えて帰宅の途についたわたくしは洋菓子店でモンブランを買い求めました。
今日は娘の7歳の誕生日だったのです。
本来ならバースディケーキが相応しいのでしょうが、それが娘の希望だったのです。
「誕生日のケーキはモンブランがいい」
子供の扱いに不慣れなわたくしが愛想なく「誕生日のプレゼントは何が欲しい」と尋ねると娘はそう答えました。
「ならばケーキはモンブランにしよう。プレゼントはどうする」とさらに問うと「いらない」と答え、わたくしの胸に顔をうずめると「モンブランがいいの」とくぐもった声で続けたのでした。
わたくしはその約束を毎朝反芻していたので、今日こうしてモンブランの入った箱を手に家路についたのです。
我が家のあるアパートの灯りを目にした時、心が休まると同時に暗く深い穴を覗いているような不安をわたくしは感じていたのかもしれません。
自宅のドアの前に立ち鍵を取り出そうとした時、いきなり荒々しくドアが開かれてわたくしは家の中に引きずり込まれました。
掴まれた右腕を背中で極められたままリビングルームへ連れ込まれ、床に顔面から押し倒されました。
ぼたぼたと鼻血を溢れさせながら顔をあげると、黒いツナギの作業服を着た二人の男がわたくしを見下ろしております。
「あ、あの」
突然の出来事と顔面を走る痛みに喉を詰まらせながらも、どうにかわたくしは声を絞り出しました。
「あなた方は…強盗の方なのですか」
「今度は狐なんだろうな」
わたくしの間の抜けた質問を無視して、眉毛のない男がわたくしの鼻血を眺めながらそう言いました。
「こいつもハズレならこれで三件目だ。ハンツが見誤るのは勝手だが、おれたちハウンドまで盆暗扱いされるのは勘弁して欲しいもんだ」
もう一方のドッグタグを模したピアスをつけた男が言葉を続けます。
「こいつ、何の抵抗もしないで捕まえられたぞ。こんなしょぼくれたオヤジがロードのお気に入りだったとはとても思えねえ」
顔は見えませんが、わたくしを床に組み伏せている男の声が背中越しに聞こえます。
狐。
ハンツ。
ハウンド。
ロード。
男達が何のことを言っているのかわたくしにはまるで分かりません。
この三人は金目当ての強盗ではないのでしょうか。
それでもどうにかしてこの三人を家から追い出し、娘の無事を確認しなくてはなりません。
淡々と言葉を交わす三人に、わたくしは屈辱に堪えながら懇願しました。
「お金なら台所の食器棚にいくらかの現金と、通帳と印鑑があります。それを差し上げますから…どうかお帰りになっていただけませんか」
わたくしがそう言った次の瞬間、背中で極められていた右腕が上に強く引かれ、右肩から「ごぎ」という鈍い音が聞こえました。
途端に頭頂部から背骨に沿って激痛の杭がわたくしの身体を貫きました。
息を詰まらせながら痛みに悶えていると、わたくしを床に組み伏せていた重みが消えて、眼前に髪を赤く染めた男の顔が現れました。
赤髪の男はわたくしの顎を強引に掴み、ニヤつきながら顔を覗き込んできました。
「なあ、おっさん。おっさんがロードのお気に入りの殺し屋なのか?」
「こ、殺し屋…?」
「その殺し屋が今回の狐狩りの獲物なんだよ。もうこの際、おっさんが獲物の狐だってことになってくれよ」
「もういいだろう。こんなやつが凄腕の殺し屋とは思えん。さっさと黙らせて次を捜そう」
眉なしがそう呟いて、腰から大振りのナイフを抜き放った時。
「やめろ」
奥の部屋から声がかかり、刃物で切り裂いたような恐ろしく細い目をした男が入ってきました。
男は黒のキャップをかぶっている以外は三人と同様に黒いツナギを身に着けていましたが、明らかに三人とは違う風格を纏っておりました。
「こいつで間違いはない。この男が今回の狐だ」
「こんな冴えないジジイがか、ハンツ」
「正確にいうと狐ではないな。こいつは鰐(わに)と呼ばれていたそうだ。裏切者や報復する相手を出来るだけ苦しませて殺す専門の殺し屋。標的を襤褸切れのように喰い散らかす人喰い鰐とのことだ」
「おれ達“狐狩り”が暗殺専門なら、こいつは見せしめ専門ってところか」
「こいつがそんなご大層な人喰い鰐とは思えんがな」
「スカウト(斥候)の情報によると今度は間違いない。そもそもお前らハウンド(猟犬)に判断する頭を求めてはいない。それはロード(領主)からハンツマン(猟犬係)の役を仰せつかったおれの役目だ。犬は余計な口を叩かずおれの指示に従っていればいい」
ハンツマンと名乗る男がそう宣言すると、猟犬と呼ばれた三人はうなだれてその口を閉ざしました。
「まずはこの男が領主のもとを去った理由を聞きださなくてはならない。右肩は外してあるようだな。こいつを椅子に座らせろ」
ピアス男がわたくしの襟首を掴んで、強引にキッチンテーブルの傍らに置かれた椅子に座らせました。
何の束縛もされませんでしたが、ピアス男が脱臼した右肩を押さえつけているので到底動くことなどできません。
椅子の前にハンツマンが立ち、わたくしを見下ろしています。
「領主が引き止めたにもかかわらずお前は組織を去ったと聞いている。領主はお前が他の組織の引き抜きに応じたと考えている。実際はどうなんだ」
「わ、わたしは…殺し屋だとか、鰐とか、そういう者ではありません。誤解です。何かの誤解です」
わたくしの答えを聞いて、ハンツマンはテーブルに置かれた箸立てに手を伸ばしました。
箸立てに入れられた箸、フォーク、ティースプーン、グレープフルーツスプーン、カレースプーン、テーブルナイフ、バターナイフ…
その中からステンレス製の菜箸を取ると、赤髪の男に渡したのです。
「これをコンロで炙れ。この男の化けの皮を剥がしてやる」
何をされるのか想像もつきませんでしたが、わたくしの背中に氷のように冷たい恐怖が這っていくのを感じました。
「本当に…本当に何も知らないんです。わたしは殺し屋などではありません。どうか、どうかお帰りになってください…」
「そういう芝居はもういらない。スカウトからお前の情報は聞いている。奥の部屋にいたのはお前の娘だそうだな」
「娘…娘には何もしないでください。あの子には何の関係もありません」
「芝居はいらないと言ったぞ。確かにあの娘はお前とは何の関係もないな。あれはもともと施設にいた孤児だそうだな」
「………」
「それをお前が施設に金を払って買い取った。堅気の父子家庭を装って身を隠すためにな。ご丁寧に戸籍にまで細工をしてあったと聞いている」
「娘に…会わせてください…お願いです」
「ハンツ、用意ができたぞ」
赤髪が真っ赤に焼けた菜箸を持ってハンツマンの傍らに立っています。
「お前が素直に喋って大人しく領主の前までついてくるなら娘のもとに行けるだろうさ」
「娘の…もとに?」
「狐狩りの標的はお前だけだ。ぴいぴい泣き喚く子狐に用はない。それでも、たまには猟犬どもに血の味をくれてやらんと抑えが効かんからな」
それを聞いたわたくしの中で、閉ざされた扉の錠が外れる音がしました。
扉から溢れだすどす黒い水…アパシー(無感情)の泥水がわたくしの脳内を満たしていきました。
恐怖で強ばった身体の力が抜けて、代わりに軽い倦怠感が身体を覆っていくのを感じました。
「ハンツ、おれにやらせてくれよ。判断を下すのはあんたの役目だろうが、狐を痛めつけるのは猟犬の仕事だろ」
目の前に菜箸の先端を上に向けて持ちながらニヤついている赤髪の顔があります。
わたくしは左手で、菜箸を持った赤髪の肘を下から強く押し上げました。
赤髪の手がはね上がり、焼けた長い菜箸が赤髪の目頭に半分以上突き刺さりました。
怪鳥のような悲鳴をあげる赤髪に構わず、箸立てからグレープフルーツスプーンを手に取ると背後にいるピアス男の首筋にあてがい、そのまま一気に引き下ろします。
頸動脈を抉られたピアス男の血飛沫を避けるようにわたくしは椅子から立ち上がり、玄関に通じる廊下へ飛び込みました。
「待て!一人で追うんじゃない!」
ハンツマンがそう叫ぶ声が聞こえましたが、廊下に駆け込むわたくしの背後を殺気が迫っておりました。
リビングから陰になる廊下へと駆け込んだわたくしはすぐに振り向き、その場にしゃがみ込んで身体を丸めます。
リビングから走ってきた眉なしが、わたくしの身体につまづいて頭から床に転倒しました。
わたくしは勢いをつけて立ち上がると同時に、右肩を壁に叩きつけると「がこっ」という音とともに外れた右肩が嵌め込まれました。
すぐに頭を打って朦朧としている眉なしの片足を持ち上げて逆さまに吊り上げると、後頭部と頸の付け根の間に踵を叩き込み頸椎を踏み折ります。
途端に眉なしの全身から力が抜けて、吊りあげていた身体が死体の重さになりました。
次の瞬間、プシュっという空気を圧縮した音とともにリビングに面した廊下の壁に小さな穴が空きました。
ハンツマンが消音器をつけた銃を撃ったのでしょう。
「狐狩りは猟犬だけで狐を追い立てるのがルールだろう。銃を持ち出すとは随分と品がないな」
「鰐を相手にルールも糞もあるか。三人とも殺しやがって、化け物が」
「口の利き方まで下品になったな。猟犬係がその有様では狐狩りの管理者(マスター)である領主の面目も立つまい」
「黙れ」
壁にさらに幾つもの穴が空きました。
わたくしは眉なしの手に握られていたナイフを左手に持つと、右腕で眉なしの襟首を掴んでその体を持ち上げます。
嵌め込んだばかりの右肩に鋭い痛みが走りましたが、わたくしは既に意識から痛覚を切り離していたのでその痛みはとても遠いものでした。
眉なしの身体を盾にしてリビングに飛び込むと、そのままハンツマンに駆け寄ります。
ハンツマンは立て続けに銃を撃ちましたが、その弾は大柄な眉なしの身体を貫くことは出来ません。
3m程まで距離を詰めると、わたくしは眉なしの身体をハンツマンに叩きつけるとともに、右肋骨の下にナイフを突き立てました。
赤黒い血がどろりと吹き出し、ハンツマンはその場に崩れ落ちました。
その手から銃を払い落とすと、わたくしはハンツマンの右腕を引き上げてその顔を覗き込みます。
「今度はこちらが話を聞く番だな。肝臓を貫いたからそう長くは持つまい。楽に死にたければ聞かれたことを手短に話せ」
「お前が知りたいような事は何も知らない。助けてくれ…」
「長くは持たないと言った。領主の連絡先を言え」
「おれのスマホに電話番号が登録してある…」
「ふざけるな、自分のボスの電話番号をスマホに登録している間抜けがいるか」
ハンツマンの懐を漁ってスマホを取り出し電話帳を開くと、本当に「カシラ/領主」と登録されておりました。
「要件は済んだ。約束は守ってやろう」
突き立てたナイフを右横に引いて心臓を切り裂くと、ハンツマンの目から光が消えました。
それにしても、自分が死ぬ事も想定せずに雇い主の連絡先をぬけぬけとスマホに登録しているとは驚きです。
ハンツマンも猟犬達も、おそらくはどこかの紛争地帯で多少実戦を齧った程度の傭兵あがりの野良犬だったのでしょう。
こんな三下の連中に“狐狩り”などと気取った名前をつけて手駒にしているとは、やはり領主は既に耄碌していたようです。
領主の引き止めに応じずに彼のもとを去ったわたくしの判断は間違っていなかったのです。
わたくしは領主の名前が記された電話番号を鳴らしました。
コール音が鳴り始めた途端、スマホに登録された番号はハンツマンの罠だったのではないかという疑念が湧き始めました。
「ハンツか」
聞き覚えのある声が応答した瞬間、わたくしは猟犬係がやはり三流の野良犬であったことを確信いたしました。
「連絡が遅い。定時連絡が出来ない猟犬係にろくに獲物を追えない犬、いずれも処分を視野に入れる必要があるな」
「犬の躾がなっていないのは飼主の責任だ。犬の粗相のツケはあんたに払ってもらう、領主(ロード)」
「鰐か」
「ご自慢の“狐狩り”がこの程度とはな。最悪のネーミングセンスだとは思っていたが、中身はそれ以上に酷いとは予想外だった」
「ハンツマンと猟犬達はしくじったのだな」
「おれはこの家を出る。犬どもの背中にナイフであんたの名前を彫っておこう。警察に見つかる前に引き取りに来るんだな」
「ハンツマンと猟犬を失った今となっては、これ以上お前を追いまわすメリットはなくなった。見逃してやるから好きに生きるがいい」
「言われなくても好きにやるさ。ご自慢のオールドマイセンのティーセットはまだ持っているか?三日以内にソーサーの上にあんたの首をのせてやろう」
「そんな事をしてお前に何の得がある。私を殺したところでどこからも報酬は出ない。そもそもお前の手が私に届くという前提が間違っている。殺し屋としては優秀だが俯瞰的な思考は不得手なのだな」
「去年からの抗争続きであんたの兵隊は半分に減っている。弾除けぐらいしか使い道のない座敷犬どもが、頭数まで少ないとくれば無理な仕事でもないだろう。俯瞰的な思考が出来ていないのはどちらかな」
「…貴様を生きたまま刻んで犬に喰わせてやる」
「地が出たな、領主。おれにそんな芸当が出来るほどの犬が手元にいないことは自分が一番よく分かっているだろう」
「………」
「あんたが余計な詮索をしなければおれは大人しくしていた。昨日と同じ今日を、今日と変わらない明日を過ごしていたはずだった。眠っていた鰐の鼻先を突いたのはあんただ。その代償をこれから貰い受けにいく。せいぜい使えない犬どもを玄関先に並べておけ」
わたくしは電話を切り、長い溜息を吐きました。
領主の言葉の一部は的を射ておりました。
確かに彼を殺して得られるものは何もありません。
領主に告げたとおり彼の組織の勢力は半減しているうえに、領主自身も往年の威厳を失っております。
わたくしが手を下さずとも、そう遠くない将来に組織は自滅するか他の組織に喰われるでしょう。
わたくしはこのまま逃げ続けるなり身を潜めるなりして、その時を待つだけで良いのです。
それに、領主を見限りはしたものの彼自身には何の感情はありません。
家族を演じるために金で買った娘は赤の他人です。
わたくしはひと殺しです。
わたくしは死体を積み上げるしか能のない殺し屋です。
わたくしは創造主の気まぐれで人の形に生まれただけの人喰い鰐です。
わたくしは領主に報いる怨恨の念も、偽りの娘の仇を取る情も抱くようには造られていないのです。
わたくしには組織の犬達を吊し、領主の首を捻じ切らなければならない理由も、必要も、根拠も、何一つないのです。

ですが

わたくしの足元には踏み潰されたモンブランの箱が。

ですが

それでも


今日は娘の7歳の誕生日だったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?