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ピンチをアドリブで乗り越える技 69/100(忘我Ⅰ)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


先日、荒木博行さんのvoicyに出演させていただきました。

昨日今日の全2回が公開されてますので、是非よろしくお願いいたします。

さて、この中で荒木さんから『ドライブマイカー』に出てくる、「忘我の境地」についてのご質問がありました。

主人公が
「演技をしていると、忘我の境地に引き込まれてしまうのが、恐ろしい」
という趣旨の話をするのですが、どういった状況かと思うご質問でした。

正直、こうやって切り取って考えてみたことがなかったのですが、荒木さんとお話しさせていただく中で、私の実体験からすると、「忘我の境地」には3種類あるのではないか?

ということに気がつきました。

ピンチに陥った時、この3つ目が役に立つのではないかと思うので、ご紹介させていただきます。

実はこの話、前回のトイレを我慢する話とも繋がります。「忘我の境地」にいると、トイレに行きたいといういうことすらも、忘れるのではないでしょうか。

まずは、一つ目の忘我、私はこれが一番究極というか、ピュアなフォームの忘我だと思うのですが、忘れるというか「我を失う」に近いです。

能狂言の神事である『翁 三番叟』など、もしくはギリシャ悲劇や『ボレロ』のような特別な公演を行う時、演者はトランス状態に入ります。

憑依している状態と言いますか、自信が何か大きな存在と観客の間のチャンネル(管)になっているような感覚です。

この状態に辿り着くと、人間であるという俗物的な存在すらも忘れ、そこにただ圧倒的な存在として在ることが出来ます。

イタコとかも、本来この状態に近いのでしょう。

特徴としては、トランス状態に近いので、一定の繰り返されるリズムが関わっていることが多く、呼吸も常とは異なっていると思います。

自分をコントロールするThe Witness(7/100参照)すらも薄くなっている状態なので、危険な境地とも言えるでしょう。

二つ目の忘我も、The Witnessが薄いという意味では似ているのですが、アメリカ式の演技に、正確にはマイズナーというメソッドを使った演技で陥りやすい状態です。

ここで簡単に、ロシア演技術と、アメリカ、イギリスの関連性をお話ししておきましょう。

あくまでも、私が現場で実際に見聞きしてきた中で、見てきた感覚的な所見ですので、もしかしたら偏っているかもしれません。

ロシアには、フロイトの心理学と関係の深い、スタニスラフスキーによるメソッドがあります。

これが、アメリカに渡った時、ハードコアというか、結構過激な路線に変化していき、絶大な支持と映画界での成功を収めました。

一方、イギリスに渡ったこのメソッドは、もともとあったシェークスピア時代から引き継いでいる技術と、60年代の他の文化もそうであったように、東洋的な側面、そしてフランスから来たル・コックの唱えた手法、これら色々な手法を取り混ぜて、独自の進化を遂げたのが、イギリス式の演技術です。

音楽史に詳しい方なら、お分かりかと思いますが、イギリスというのは、その大航海時代の大英帝国の名残か、東西様々なものを取り入れて、独自の手法を生み出す傾向にあります。

また脱線しましたね、「忘我の境地」に戻ります。

この、アメリカ式の演技をしている時に陥りやすいのが、『ドライブマイカー』で語られる境地かと思います。

分かりやすい例として、アメリカ式の役者は撮影前や舞台袖でも、常にその役に入り込んで、周辺をシャットアウトしがちです。

イギリス式は、直前まで雑談をしたりジョークを言っていても、急にスイッチを入れます。終わったら、瞬時に切ります。周辺の環境をシャットアウトすることは、あまりありません。

うーん。演劇史の話を入れたら少し長くなってしまいましたね。

明日に続きます!


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