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「老師と少年」 南直哉

今回は南直哉和尚さんの「老師と少年」について考えてみます。
少年は死ぬとはどういうことかが知りたくて老師のもとを訪ねます。

前夜

少年
「なぜです。みんなが考えるべきこと、考えなくてはいけないことではないのですか?」
老師
「そうではない。考えてしまう人と、考えなくてもすむ人がいるだけだ。そして考えなくてもすむ人が、世の中の仕組みをきめていく。その世の中で、考えてしまう人は迷い、遅れ、損をする」

老師
「彼は今夜、自分が一人ではないことを知ったのだ」

生老病死という人間の苦というものについて考えなくても生きていくことはできます。そうであっても、考えてきた人たちが存在し、また考えることには意味があります。少年は老師との対話から、そう考えてしまうことが決して間違いではなく、自分が一人ではないことを知りました。

第一夜 生死の善悪

老師
「生も死も、善いことだと決まっているわけでもないし、悪いことと決まっているわけでもない。それは人が決めることで、初めから善い生や悪い死があるわけではない」
「選ばれた生が、善きことを生み出すことがあるというだけなのだ」
老師
「自ら生を選び、生きることを決断する者は多くない。おおよその人々は、ただ生き、ただ死んでいく。」

老師
「もし、その道のりに何の疑問も抱かなければ、彼の一生は安らかだろう」
少年
「それは幸福なことなのですか」
老師
「それは、道を歩く人自身が決めることだ」

生きていくことに何の疑問も持たずにいられたらどんなに楽なことでしょう。人は善と悪を自分で考え決めなければなりません。
それは苦しいがゆえに人々はふたつの方法でこれに立ち向かおうとします。
自ら決断するか。
神の命令に従うか。
これは、大雑把にいえば仏教とキリスト教の違いと捉えていいのかもしれません。ここで重要なのは対立的にどちらが良い悪いの問題ではないということです。
そして前者を選んだ老師は言います。
道を歩く自分自身が決めるのだと。
ここで老師は自分を島とし自分を頼りにするということ(自灯明)をいっているのだと思います。

第二夜 本当の自分

少年
「ぼくは誰ですか」
「師よ、本当の自分です。本当の自分が知りたいのです。・・・」
老師
「本当の自分を永遠に知ることはできない。会ったことのない人はさがせない」

老師
「本当に問題なのは『本当の自分』を知ることではない。君が『本当の自分』を苦しいほど知りたいと思う、そのことだ」

老師
「なぜなら『私』という言葉は確かな内容を持つ言葉ではなく、ただある位置、ある場所を指すにすぎない」
少年
「その場所はどこですか」
老師
「『いま、ここ』だ。『私』はそこについた印なのだ」

老師
「その場所に人は経験を集め、積み上げ、それを物語る」
「集められ、整理され、まとめられる。それが言葉を持つ人間というものの在り方なのだ。『私』という名前の物語を作らなければならない」

老師
「友よ。『本当』を問うな。いまここにあるものがどのようにあるのか、どのようにあるべきなのかを問え」

老師は少年に本当の自分というものは知ることはできないと説きます。本当の自分を探すことよりも、いまここにあるのが私なのです。この自分はどう生きるか、自分にとって本当に大切なものは何か、何を得たいのかを問いかけよと言っているのだと思います。

前夜から第二夜までの出だし部分をまとめてみました。いかがだったでしょうか。薄い本ですが中身はたいへん濃い内容です。何度も読んで考えるそういう類の本だと思います。生について考えるおすすめの一冊です。


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