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偏差値30代から早慶上智合格へ👀! 甲子園を本気で目指す高校球児だった息子の子育て【認知能力・非認知能力】から見た「育ち」の検証①

息子のことを記事に書く上で
あらかじめお伝えしておきたいのは

「高学歴が良い」とか
「頑張れば良い結果が待ってるよ」
などの

物事の「価値観」についてや
我が子の「成功物語」を
書きたいのでは
ないということです。


息子が偏差値30代から
一年の浪人期間を経て
どうして早慶上智3校に合格できたのか

あくまでも「結果からの考察」とはなりますが
「認知能力 :cognitive」と
「非認知能力:noncognitive」

という2つの観点から
息子の子育て、その育ち
わたしなりに検証していけたらと考え
それらを記事にしていく予定です。

新たな学びも同時進行で構築しながら
時間を掛けて考察していくことに
なると思います。
よろしければお付き合いください。


以前お伝えしたこの記事で ⇓

わたしの嫁ぎ先の背景や
子どもを授かるまでの経緯について
お伝えしました。

長男は約25年ほど前に
我が家にやってきました。

義理の父が待ちに待った
我が家の跡取りです。

ここで一つ
付け加えておきたいことがあります。

わたしは子どもを妊娠してる間
あえて3回とも出生前の性別診断は
行いませんでした。

第1子が生まれる時
一部の親戚の方が
わたしのお腹の出方を見て
「絶対男だ」と義父を喜ばせてしまい
男の子の名前を50個くらい考えて
渡されたことがありました。

出産時も、真夜中でありながら
義父も義母と一緒にわざわざ病院に
駆けつけてきてくれていました。

いよいよ出産そして……

出産直後に女の子だったと分かり
わたしに掛けられた言葉
「なんだ、女か……。」

車椅子じゃなかったら
危うく義父に後ろから
蹴りを入れているところでした。

丸一日かけて
命がけで出産した直後の言葉が
これとは……。

しかし、予想に反して
義父は誰よりも長女を
かわいがってくれました。
それはそれは
今までとは人がかわるほどの
かわいがり様でした。

後から振り返って
気付けたことですが
義父には義父で
厳しい世襲制の家業を営み
周囲からの眼もある中

わたしの出産に関して
相当なプレッシャーが
掛かっていたのだろうと思います。


そろそろ今日の本題に入ります。

我が家の長男は
長女と3歳年を空けて
我が家にやってきました。

切迫早産で6か月の安静期間を経て
そして何より義父が待ちに待った
男の子ではありましたが
その頃は義父もだいぶ落ち着いていて
「名前は自分たちで決めていい」と
言ってきてくれました。

義父の名前の漢字を一字もらって
名前を付けました。

この我が家の長男は
父親やわたしの実の弟である
叔父の影響もあって
小さいころから野球が大好きでした。

野球をこよなく愛し
高校では私立強豪校で
甲子園を目指して
本気で野球をしていました。

勉強にほぼ興味はなく
小学校の時は
学童野球の練習に行くための
条件の一つで
学習教材くらいはとりあえず
いやいや、やってはいました。

中学から高校へは受験なく
野球が絡んだ推薦入試で入学
高校に入ってからは
文字通り、高校球児として
野球オンリーの高校生活を
送っていました。

一度だけ、初めての試験休みに
遊びに行こうとしていた息子に
一応「テスト勉強しないの?」と
聞いてみたたことがあります。

烈火のごとく怒り
「俺はいつ遊ぶんだ」
と言い、腐っていました。

この時、自分で決めた「野球」に
今の全てを掛けてがんばってはいるけれど
大好きなこととは言え
本人の中のストレスは
相当なんだなと感じて
そこから一切
勉強のことを言うのは止めました。

一つだけ、入学前に交わした約束
「授業は寝ないで受ける」
これだけ守ってくれればいいと
再確認だけして…。

長男が高3の夏
栃木県の名だたる強豪校が
全国制覇を果たしました。

息子が所属していた私立高校は
毎年のように
この屈指の強豪校と決勝戦で当たり
敗退していました。

息子が3年生の時
その最後の夏は相手に食い下がり
結果かなり善戦はしたものの
やはりその壁は厚く、高く
甲子園への夢は叶いませんでした。

よく言っていました。
「かあちゃん、甲子園に行くのは
 確率的に言ったら東大に合格するよりも
 難しいからね。
 実力もだけど運も重要なんだよ!」

いがぐり頭で真っ黒な顔で
眼を輝かせながらそんなことを
わたしに真剣に話してくれていました。

2年半、とにかく、来る日も来る日も
野球だけに明け暮れる毎日
でした。
チーム内に複数いる副キャプテンの一人として
キャプテンと他のメンバーとの
間を取りもちながら
精神的にも肉体的にも
ギリギリのところで
本人も頑張っていたのだと思います。

後から
「あの時もしかして間違ってたら
 命がなかったかも」

と振り返ることもあったくらい
血反吐を吐きながらも
野球に命を懸け、青春を燃やしていました。

その、甲子園への夢が絶たれた時
一時は糸が切れた凧のようになり
当時はやりの「ポケモンゴー」で
夜中に友達と外を徘徊したり
好きに遊びまわったりと
それまで抑圧されていたこともあり
見事、自由に動き始めました。

母は容認していました。
高校で野球だけ頑張ればいいと
言える理由の一つ
それは、その私立高校が
大学の付属校だったからです。

なので、とんでもない評定を
とったりしていなければ
大学はエスカレーター式で
上がって行ける、そんな目論見も
わたしにはありました。

しかし、ポケモンゴーに興じながらも
息子は何か虚しさを感じていた…。
そう、彼は野球への夢が
まだ捨て切れていなかったのです。

「不完全燃焼だ、やり切れた気がしない」
と……。

完全レギュラー出場できなかった
不甲斐なかった自分を
完全燃焼させたい気持ち

燻っていたようでした。

夏の甲子園が終わるころ
突然「大学でも野球がやりたい」
と言い出しました。

エスカレーター先の大学の
セレクション(野球部入部推薦会)にも
一応参加したのですが
実はここの大学が
全国優勝レベルの大学だったため
「ここでは俺は
 レギュラーにはまずなれない」
と、他の大学の硬式野球部を探し始めました。

なんと、見つけたのは
『早稲田大学』
です。
ここなら一般受験でも
硬式野球部に入部できる
と自ら調べ
受験したいと言ってきました。

確認のために息子と2人で
練習会を兼ねた説明会に参加しました。
食い入るように説明を聴き
練習会では質問まで
しています。

息子は我が家を継ぐことを期待されて
生まれてきている。
でも、息子の人生は息子のものだから
母親のわたしとしては
できるところまで息子の意思を
尊重してやりたい
と考えていました。

しかし、これまで鉛筆は
転がすものくらいに思っていた息子が
果たして今、どのくらいの学力があるのか

高校の近くのいくつかの塾に
足を運んでみました。
話を聴いてもらえただけでも
幸運だったのかもしれません。

息子はやる気満々でしたが
最初の考査ではなんと
偏差値30代半ばでした(大汗)

この時点で
息子は事の重大さに
全く気付いていませんでした。

続きます……。

このシリーズでは引き続き
受験勉強の内容よりも
息子の「育ち」を中心に
記事を書き進めていきます。

他の記事と並行しながら
また、自分の新たな学びも
記事に付け加えながら
少しずつ更新していきます。

きょうもここまでお読みいただき
本当にありがとうございました🍀

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