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古典主義音楽家 vs 思想家

1750〜1827

バッハが没した1750年が古典主義音楽の始まり(ハイドンはまだ18歳だし)で、ベートーヴェン没の1827で古典主義終わりとしましょう(シューベルトが1年しか活動してないことになりますけどね)。

ハイドン vs カント

ハイドンで型式が整ったと考えてください。それまではイタリア式序曲といって速い曲、遅い曲、速い曲のセットでオペラ前の演奏されていたのです。それとは別に舞曲というのは、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグなどをセットで組曲として演奏されていたのです。「いーこと考えた! 速い曲、遅い曲、舞曲、速い曲の4曲構成にすればいいじゃん!」というのがソナタです。これをオーケストラでやれば交響曲です。そのソナタの最初の曲の展開のしかたも決めました。これがソナタ形式です。それまでの音楽はハイドンに集約され、それ以降の音楽はハイドンに従うんです。もちろん、リストなどその形式を破る人もでてきますよ。とにかくハイドン前とハイドン後になるのです。

6歳上にカントがいました。考えるのが先? 経験が先? という時代に「どっちも間違い!」といいました。さらに、モノがあるから知覚するのではなくて、知覚するからモノがあるというコペルニクス的転回をしました。
カント以前の哲学はカントに集約され、カント前とカント後ということになるんです。

こいつらタッグ組んでるはず・・・

モーツァルト vs フィヒテ

モーツァルトはハイドンの24歳下(ベートーヴェーンの14歳上)です。モーツァルトはとにかく幼少から音楽家として演奏したのです、作曲したのです。そう、行動したのです。だから、あれだけの作品を残しているのです。

モーツァルトの6歳下のフィヒテは事実と行動が一致したときに世界を生み出すといいました。例えば、ピアニストがピアノを前に何もしないことも可能です。だけどもピアノを演奏した時に初めて、ピアニストであるという「事実」とピアノを弾くという「行動」が一致して世界を生み出すのです。(これを私はクライアントに「オマエは医者だったら、死にそうな人を目の前に口笛吹いて無視してるようなもんだぞ! 今すぐ音楽家として行動しろ! フィヒテ読め!」と言いますが、なかなか読んでもらえません笑。)

多分フィヒテはモーツァルトのファン?

ベートーヴェン vs ヘーゲル

ベートーヴェンの交響曲の展開は見事です。一つのテーマである、例えばジャジャジャジャーンをあれだけ繰り返して、あーでもないこーでもないと展開しています。絶対音楽がいいんじゃない? 標題音楽がいいんじゃない? いやどっちも入れれば良い! 耳聞こえないから無理じゃない? 頭の中に音は流れるし、形式的に書けばいいんだ! 楽器と歌とどちらがいい? 合わせればいいんだ!・・・という感じで常に対局のアイデアを混ぜてより良い案を出しました。

同い年のヘーゲルは○かな? □かな? あ!円柱だ!という対極を合わせて次のステップに繋げるのがいいと考えました。

こいつら友達っしょ、絶対w

まとめ

音楽家というのはですね、思想家の主張を聞いたら、その時代、その年の代表曲がスッと頭に流れるものなのです。

これが流れていない音楽家は緊急手術が必要です。

是非公式LINEでお友達になって、お会いしましょう。

(ps. 「シェリング飛ばすなよ!」と思った方、すみません。ヘーゲルより年上ってのが面倒くさい点でした)

津本幸司

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