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#子育て
暇な子どもたちは未熟なホモ・サピエンスから成熟したホモ・ルーデンスとなった
自粛生活ではたと気づいた都会の子どもは忙しくて、土日に誰かと遊ぼうと思ってもみんな習い事に行っていたりサッカーの試合だったり、親と一緒にお出かけしたり、基本的にはどこにも誰もいなくて、もれなく我が家もそれを前提に家族の予定を入れていたりしたので、ずっと、暇とは無縁だった。
それが、毎日保育園もなく、土日も平日も関係なく、家にいていい何してもいいってことになったので、親はともかく子どもは暇になった
子どもの邪魔をしない教示とフィードバックについての一考察
運動学習、という学問のテーマがある。英語だとmotor learning(そのままだ)と呼ぶ。最近はスキャモンの成長曲線とゴールデンエイジという言葉への誤解もそこかしこで生まれているが、運動にしろ勉強にしろ、とにかく詰め込めばいいというのは大きく間違っていて、「効果的に、あとできちんと応用できるように」運動を教えるというのはひとつの大きな課題であるという認識のもと、運動学習の様々な視点について昔か
もっとみる死についてのひとつの考察としての魚の最期
いま、この、『分解の哲学』という本を読んでいる。食べることについての本を何冊か選んで読んでいた過程で、amazonのオススメリストに出てきた本だ。食を扱う分野では発酵が注目を浴びて久しいので、表題の通り分解の話もその流れの下流(あるいは上流)にあるのではないかと思ったのだが、ところがどっこいこの本は食べ物の本でもなんでもなくやっぱり哲学書なのであった。
この本を読み始めたとき、ちょうど自宅の
こちら側をあちら側に差し出しつづける、ということだ、生きるということは
わたしは理学療法士なので、ひとの爪が切れない。
理容師とか医師とか看護師とか鍼灸師とか、ひとに刃物(や針、や火)を当てることができる職業というのは限られているのだ。
けれども患者さんの足の爪が割れていたり、それを痛いとか不快だとか思って訴えが強い場合には、ご本人や家族にわたしの職業の限界をきちんとお伝えした上で了承を得て、手の届かない(あるいは手先を使えない)本人の代わりに、または目の悪い(ある
「視覚」と「運動」の関わりは新生児期を土台としている
少し前に『眼の誕生 ーカンブリア紀大進化の謎を解く』という本を読んだ。眼と言えば感覚器官の代表格で、わたしたちの社会の大部分は視覚を持ち合わせていることを前提に作られていると言っても過言ではない。
むかし病棟に勤務していた頃に、視覚を失った患者さんに出会った。糖尿病で50代で視力を失ったその患者さんは、世界を、文字通り「手探り」で確認していた。
その患者さんが病棟内で生活できるように工夫しよう