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【第2話】左脳X右脳の国、フランス。「文学」「マーケティング」「ブランディング」がつながっている話

あれからちょうど30年が経った。上智大学の外国語学部フランス語学科での2年生が終わりを迎えていた2月、1年後の日付で休学届けを大学に出した。普通は留学は1年だったけど、2年間ぐらい行かないとペラペラになれないのがわかっていたので、交換留学の1年プラス休学の1年の合計2年間、日本には戻らない覚悟でフランスに行くことにしていた。単身でフランスに旅立つ日、成田空港まで両親と、当時大切にしていた彼女が見送りに来てくれた。後で知った話で、、、、両親と彼女の3人で四谷で食事をしたそうだ。とてもかわいらしい人だった。その時、彼女はとても寂しそうでちょっと泣いていたらしい。話を聞いた時、心が痛かった。なぜかといえば、フランスの文化に溶け込み始めたころ、本当に良い人だったのに、それぞれの道を行こうなんて、冷酷な話を突き付けてしまった、、、。失ったものは、実は本当は大切なものだったのかもしれない。当時はスマホもなく、いや、インターネットさえなかったから、今みたいにLINEやmessengerやメールで写真や気持ちを伝えることなんかは想像さえ出来なかった。やりとりの唯一の手段は、AIRMAILと書かれ赤白青の帯で囲われた封筒に入った手紙だった。父からは、「親愛なる哲也へ」なんて始まる直筆の手紙みに「男が失敗する時は、酒、金、女。それらに溺れないように。」なんて書いてあったのを覚えている。3枚の便箋にビッシリ書いてあった、たぶん、ゆうに1時間はかけて書いたようなものだった。彼女からは、ほぼ毎日書かれ投函された日記のような手紙が週に2回ほど3〜4通まとまってフランスにいた僕の手元に届いていた。申し訳ないぐらい本当にいい人だった。

それと引き換えに、僕はみるみるフランス人やフランスのライフスタイルと文化に溶け込み、ヨーロッパ各国からフランスに来ていた同世代のが外国人留学生たちとも同類化するぐらいの勢いで暮らしてた。はじめの頃はフランス語もたどたどしかったこともあって、個性が命の国の大人たちは、僕のことなどほとんど相手にしてくれなかった。飼い犬のペットに話しかけるような感じで話しかけられ、屈辱的な思いをしたことが何度もあった。「まず同世代の若者と対等に会話ができるようになろう」と決めた僕がしたことは、ある意味、振り切っていた。当時、同じ大学に30人はいた日本人とも日本語を使うことをきっぱりとやめた。おのずと彼ら彼女たちとの交流は一切なくなった。イヤな奴だったと思う。でも、そんなのお構いなしだった。

父に頼んで仕送りを月額5万円増やしてもらい、1杯8フラン(200円ぐらい)だった生ビールを毎晩・毎週末、行きつけのカフェ(夕方からバーになる)でフランス人やヨーロッパ各国から来た友達におごりまくり、不器用なフランス語でたくさん会話をしていた。ヨーロッパからの留学生は、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、イギリス、オーストリアが多かった。あ、、、あと、ヘタクソなフランス語を話すアメリカ人も結構いた。生ビール2杯でかなり酔っぱらえることが功を奏し、自分の不器用なフランス語も気にならなかった。むしろ「陽気でちょっと変わったおもしろい奴」になっていた僕のことを周囲はかわいがってくれた。美人や美男だけど真面目すぎて面白さが物足りないようなフランス人学生とも仲良くなり、一緒に図書館で19時まで勉強。その後、「牛タンステーキ」のメニューで出てくるお皿に牛のベロが1本まるまる引っこ抜かれた状態で出てくるような学食で食事を済ませ、彼ら彼女たちとはそこでバイバイ。すぐさま自転車で5分飛ばしたところにある行きつけのカフェに直行。陽気に酔いながら、ヨーロッパ中から来ている友達とフランス語でじゃれ合い、そして、徐々に親しくなっていったフランス人の友達から美しいフランス語を盗む。週末は、カフェの後に郊外のクラブにいく車に乗せてもらう。リズムに乗りながら、お構いなしに近くにいる人に話しかける。街中の自宅に戻るのは、決まって朝4時頃だった。

そうこうしてるうちに、気がつくとフランス人の友達が話すことが良くわかるようになっていた。友達と映画に行っても、字幕なんかないけど、ほとんど分かるし、映画の後のカフェでの会話も楽しいものになっていた。僕が話すフランス語は、かわいがってくれていたフランス人の友達の何人かの「物まね」状態になっていて、それがまた良く通じた。しばらくすると、アドバンテージがあるヨーロッパ各国の留学生よりも自分の方が流暢に話すようになっていた。そして、1年半経たないうちに、面白いことがおこるようになっていた。スイスのジュネーブあたりでは公用語がフランス語だということや、色白な僕の目の色がブラウンとグリーンの中間色とうこともあり、「Te es de Suiss?(スイスから来たの?)」と、スイス人に間違えられるようになっていた。しかも、フランス人からそんな質問をよくされるようになっていた。

留学の大儀名分として、パリ商工会議所(日本でいえば、経済産業省の機関のようなものなんだと思う)の上級試験に合格するという目標を僕は掲げていた。毎年、日本人でパスする人は1人か2人(だったかな)という難しいもので、記述式の筆記試験5科目、口頭試験4科目からなっていた。フランス語検定1級(英検のフランス語版)の何倍も難しいものだった。それにパスすれば、とりあえず2年間の留学に関して、誰にも(大学の学長にも両親にも)文句が言われないようするための策だった。だからパスしないわけにはいかなく、昼間は超まじめにやっていた。そんなこんなで、その試験にもパスし、帰国後に受けたフランス語検定1級の試験も鉛筆と消しゴムの入った筆箱を持たずボールペン1本で臨み、筆記試験をパスし、その後の口頭試験もテキトーにやってパスした。

なんでもそうだと思うのだが、「良いものを真似る」「良い人を真似る」というのが一番近道でだということを身をもって感じていた。その後、社会人になってからも、その原体験から「真似る」「盗む」「パクる」を大切にしていた。泥臭く地べたを這いながら、それらをすることで、人よりは少し早いスピードで上手くできるようになることが増えていっていたように思う。カッコよく言えば、「守破離」の「守」だということなんだろう。そういえば、尊敬する藤田社長も「パクるのが一番早いし成功確率が高い」ということを当時いっていたことを思い出す。つまり、いくつかの良い手本を真似て取り入れることによって生まれるものは、全くのイミテーションにはならずに、オリジナルに近いものになる。そして、そのうちに良いものに共通する法則のようなものが見えてきて、さらにオリジナルになっていくということなんだと。

話をフランスの時代に戻すと、授業の中で好きだったのは、「経営・経営」「哲学」「文学」「文化」だった。はじめは、それぞれがそれぞれにバラバラのものだったが、そのうちに、いろいろとつながりだしていくことになる。一度には書ききれないので、バラバラと、このnoteに記していこうと思う。

経営学を専攻していたフランスの大学で印象的だったこと。それは、文学の授業の体験。「文学」「マーケティング」「ブランディング」がつながっている感じだ。僕はAngers(アンジェ)という街にあるカトリック大学に通っていた。パリから西南西に250kmぐらい行ったところにある街で、大西洋とパリの中間ぐらいにあった。ロワール川がゆったりと流れ、湖は綺麗で、春夏はそこで友達とよく泳いだ。夏は大西洋の海に行き飲みながら海の青さと太陽の眩しさと、なぜだか日本とは違う風の香りを満喫した。そのあたりのエリアは昔から貴族の別荘つまりお城がたくさんあり、ゆえに、一番綺麗な発音のフランス語が話されるエリアとされている。上智大学と姉妹校だったその大学に名物教授がいた。Monsieur Barbiers(ムッシュー・バルビエ)文学部教授。何やらフランス政府からも表彰されるほど知性と感性に溢れた人だった。歳を聞ける雰囲気がなかったが多分40歳ぐらい。小太りで髪型はアディダスの3本線を横にレイアウトしたような髪型(?)をして、交響楽団で熱烈に指揮棒を振った直後の指揮者にも見えるような人だった。同性愛者かな?と思った時期もあったが、街中で彼が美人風な奥さんとかわいい息子さん・娘さんと歩いている姿を見て、当時の僕はほっとした。上品な感じのジャケットをいつも着て、文学と音楽をこよなく愛していた人だった。その先生が「シラノ・ド・ベルジュラック」という小説を教材に取り上げた。(http://www.bungakuza.com/cyrano06/intro_2.html ←あらすじ)渡仏した1990年に映画にもなり、セザール賞で10部門を受賞して当時のフランスで一世を風靡していた。バルビエ先生は、授業の中で映画のワンシーンを演じながら解説。僕たち学生は時々失笑しながら先生のロジカルかつエモーショナルな授業の虜になっていた。

その中で触れた「思想」「ストーリー」「セリフ(言葉づかい)」にやられたことを今でも強烈に覚えている。「ニュータイプの時代」「世界のエリートは、なぜ、美意識を鍛えるのか?」の著者で親しくさせていただいている山口 周さんが著書や講演などで「文学にはヒントが沢山ある」ということや「ロジカルシンキングには限界があるから、感性・感覚をロジカルの上に織り交ぜることが大切。直感がとても重要」だというようなことをおっしゃっている。「シラノ・ド・ベルジュラック」の中には、教科書のような具体例が沢山つまっていた。(フランス語で読まないとそれは伝わってこないかもしれない、、、すみません、汗)主人公のシラノは、誰かや何かに決して迎合しないタイプの武闘家かつ詩人で、彼の信念を心意気にして生き、そして、死んでいく。彼から繰り出される行動と言葉が本当に凄い。宝塚歌劇星組でも演じられているこの物語は、「抽象を何通りもの具体で表現」→「最後にエモーショルな抽象表現でジャンプし人の心を突きさす」そんなシーンのオンパレードだ。大げさかもしれないが、抽象と具体を何万回も往復している感じだ。

そもそも、「直感」は数百・数千のロジカルシンキングから導き出される結論のようなものだから、直感をロジカルに説明することは不可能。フランス語やフランス文学も、それにすごく似ている。とにかく、ロジカルに考えるし、文章の組み立てもロジカル。ひとつのことを幾通りもの視点からロジカルに考え言葉にしていく。最後にエモーショルな言葉や一文でグサッと心をを突き刺す。時には、幾通りもの「翻訳」にして表現していく。抽象と具体の行き来が半端ない。ひとつの抽象をいくつもの具体的表気でミルフィーユのように積み重ね、そこから抽象的表現をひとつかふたつでジャンプして人の心を串刺しにする。

それは、僕自身がマーケティングやブランディングの仕事をする際に常套手段と使っていることのような気もする。「美濃部さんのプレゼンは、、、ひとことで言うとラブレター」と、当時ベクトルで一緒にやっていた、今はタクシーのサイネージ広告の会社の社長をしている三浦さんが言ってくれた時は嬉しかったな。プレゼンもそうだが、コーポレートブランディングの仕事を頼まれる時も、具体と抽象の行き来を何万回もする。そのループの輪が広がっていき、いろんなことが結びついてくる。「ひとつのものやことを360°の角度から観察して、その交差点に答えがある」といった感じのことをマーケティングの仕事をする際に重要視している。360°からの「観察情報」=定性データがマーケティングをする際に重要だということを信じて止まない。そのような習慣もフランスにいた頃に見に着いたものかもしれない。360°から見た観察情報をもとに考えたロジカルの束から、人の心が動くようなコンセプトや言葉は生まれてくる。そして、「ひとつのことが違う意味に翻訳されて価値となっていく」ようになところに行き着いた時に、新しい市場やブランドの芽をつくることができる。今、僕は「ブランディングとは、翻訳して意味を創ること」だという話をしているが、そのルーツは、「シラノ・ド・ベルジュラック」あるのかもしれない。

Tabioにいたときに、「靴下」を「履くものから贈るもの」にして、新しい市場を創ったことがある。(ちなみに、Tabioの靴下は、全国にある「靴下屋」や「Tabio」で変えるんだけど、本当に質が良い靴下でデザインも良い。これを履いたら他の靴下では物足りなくなるのは間違いないんだな、これが。)ブランディングで市場を創った時も、靴下を360°の角度から見て、、、正確に言えば、100を超える「靴下屋」の店舗で自分自身が実際に靴下を購入して、靴下を買う人の行動と気持ちを自分の目でも見聞きして、「なぜTabioの靴下を贈り物にする人が割と多いんだろう?」ということの答えが見えたから、積極的にギフト市場を獲りに行くことにしたのを覚えている。打ち手のひとつとして、たとえば、父の日に「空を飛ばせてくれたお父さんの足へ。父の日に靴下を送ろう。」という言葉と、お父さんが寝っ転がって足を上げて小さな娘さんを足の裏で飛行機しているビジュアルを使ってキャンペーンを展開。例年の3倍以上、売れることになる。

最近、ラクスルの田部さんと一緒にやったセミナーでブランディングについて話をしたことがある。それが記事になっているんだけど、かなり詳細にわたってブランディングの考え方が記載されている。その中で、Tabioのブランディングについても触れられている。先ほど記載したキャンペーンのビジュアルも載っている。もしよければ、こちらもご覧ください。
https://www.sold-out.co.jp/soulofsoldout/other/20191226

長々と書きました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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